それでも紫陽花は咲いていた #5 「ミラ」

第25期(2016年2月-3月)

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 夏の休暇が始まると、僕とミアキは毎年祖父の家へ泊まりに行く。休暇のはじめから二週間は、必ず祖父が独りで暮らす家で過ごすのが僕たち従兄弟の決まりだった。
 僕は数えで十一歳、ミアキは一つ上の十二歳になる。親族の中で数少ない歳の近い男同士、それに互いの趣味も良く合うためか、僕たちはお互いがいれば遊び相手には困らなかった。
 ミアキは母親の血が濃い整った相貌に利発な頭を持っていたが、いかんせん少々気難しく、人間嫌いな節があった。
 僕はミアキほど頭も顔も良くないが、大抵誰とでも打ち解けられたし運動はミアキよりもできた。
 僕たちはこうして自然と、お互いに足りないものを補い合っていた。

 祖父の家を訪れるには理由がある、
 夏の休暇を利用して、普段離れて暮らす祖父の手伝いをすること。もう一つは家で長すぎる暇を持て余して親を困らせない為だ。
 半分厄介払いのように追い出されたが、自分たちの性分も理解している。好奇心が抑えられない時分、二ヶ月近くもおとなしく勉強だけしていろと言う方が無理だ。
 前の休みにミアキと二人、部屋の中で小型のロケット花火を打ち上げたら母親にこっぴどく叱られた。
 祖父の家には珍しい本や骨董品があるし、家のそばには山から流れた清らかな淵や小さな森があり、豊かな自然に遊ぶ場処は事欠かない。
 身の回りや食事の世話は祖父がずっと雇っている通いの家政婦さんがやってくれるし、祖父も無口で気難しいところがあったけれど、家の中やその周辺で僕たちが遊んでも口出ししたりしなかった。

 小さなボートが繋がれた川よりも、栗鼠や野うさぎに出会える森よりも、僕とミアキを夢中にさせた場処が家の中にある。祖父の書斎の隣に位置する書庫だった。
 祖父の書斎は大きな洋風机を中央に、本棚の壁が四方を取り囲んでいた。天井近くまで全ての棚にぎっしり本が詰め込まれており、古く黴っぽい紙の匂いが満ちていた。唯一の窓は机の左手側にあったが部屋と比べても小さく、景色を見るにも庭の一角を覗くのが関の山だった。
 「何処に何の本があるのか、ちゃんと覚えてる?」
 今よりもっと幼い頃、僕は一度だけ祖父に訊ねた。
 「勿論だとも。この中に眼を通していない本など一つもない」
 僕の頭を撫でた祖父は原稿の手を止め、青磁のティーカップに入った甘い紅茶を飲み、家政婦さんが焼いてくれたジンジャークッキーをぽりぽりと齧った。それが祖父の好物だった。
 黒い外国製の万年筆を使い、節くれだった指でクリーム色の原稿用紙に物語を綴る祖父は、時折原稿の手を止めると小さな窓から庭の花壇に咲く紫陽花をぼうっと眺め、ジンジャークッキーを食べながら手を休めた。
 書斎の隣に位置する書庫には、書斎に入りきらなかった膨大な量の書物の他、祖父が若い頃世界中で蒐めた蒐集品が詰め込まれていた。
 僕たち従兄弟にとって、祖父の書庫は行く度に発見がある宝の山だった。

 「二人とも良く来ましたね」
 玄関に立つ家政婦さんが笑顔で僕らを出迎えた。蝉しぐれが降りしきる真夏の午后、家政婦さんは淡い水いろのブラウスに白いエプロンを着けていて、洗いたての白が眼に眩しかった。
 「久しぶり。お祖父さんは?」
 「今日も原稿執筆の為に書斎にこもっていらっしゃいますよ。こんなに暑い日は森の木陰で散歩でもなさればいいのに・・・」
 やれやれ、困った人だと言わんばかりに首を振る家政婦さんに、僕もミアキも苦笑する。
 僕たち二人も書斎の真横にある書庫に缶詰になる心づもりなのだ。返す言葉もない。
 「書庫の鍵は開いてる?」
 ミアキが訊けば、それだけで何か察したらしい。家政婦さんは溜息を吐いて、お祖父様が持っていらっしゃいます。だけど決して中のものを壊したりしないで下さいね、と念を押した。

 書庫へ入る前に祖父の元へ一聲かけるのは毎回の決まりだ。逆に言えば、いつでも一聲かけさえすれば祖父の書庫へは自由に出入りができるということだった。
 黒く光るまで磨かれた古い廊下を歩き、二階の突き当たりにある大きな樫の扉をノックする。
 「お祖父さん、僕だよ。スイもいるよ」
 「・・・お入り」
 ミアキの聲にやや間をおいた返事に、僕たちはそっと部屋の扉を開けて中に入った。
 祖父はいつもと同じに部屋の中央にある椅子に腰掛け、視線も上げずに何かを書いていた。祖父愛用の万年筆からは、ひっきりなしにさらさらと優しい音が聴こえる。
 「翠。水明。元気だったか」
 「うん」
 「勿論」
 僕らの名前も、僕らが生まれた時に祖父がつけてくれたものだ。
 祖父はずれた眼鏡をずり上げると手招きし、僕とミアキの頭を撫でた。
 「大きくなったな。たった一年というのに、子供の成長にはいつも驚かされる」
 「博物館はどう?お客は沢山入ってる?」
 祖父は小説家として本を出す傍ら、自身の蒐集品の一部や蒐めた剥製などを使って小さな博物館を作っていた。
 一般の公開も行っていて、小規模ながらも多くの人が祖父の所有するマメジカや、ベンガルトラの剥製や、インドの空を飛ぶと言われた絨毯、三十六人の女性を殺したと言われる呪いのルビーのネックレス、そのほか鉱物標本や博物画を鑑賞していた。
 「まぁ、ぼちぼちと言ったところだな」
 僕たちはまだ一度も祖父の博物館へ連れていってもらった事がない。どんなに珍しい品々が、硝子ケースの中でひっそり息をひそめているのか。まだ見ぬ博物館に僕とミアキの想像は膨らむばかりだった。
 「お前たち、また書庫に行くんじゃないのか」
 祖父の言葉に本来の目的をやっと思い出した僕たちは大きく頷いた。
 書庫の鍵を開けるための赤錆びた鍵を手渡しながら、わかっているね、と祖父は言った。
 「一、本は勝手に持ち出さない。二、中で筆記帳にメモを取るときは必ず鉛筆を使うこと」
 「三、棚の中に入っているものは落としたり、壊してはいけない。四、お祖父さんにだまってしまってある場処を動かさない」
 僕とミアキは互いに言った後、目配せしあって一番重要な決まりを唱えた。
 「書庫の本を全て整理して、床を水拭きすること。」
 紅茶を飲みながらこちらをじっと見ていた祖父は、小さく満足そうに頷いた。
 「よろしい。良く覚えていたな」
 年に一度、僕たちが来ると分かっているから祖父は僕たちに大掃除をさせる。そのご褒美として、特別に蒐集品を見せてもらえるのだ。

 「これってどう思う、スイ」
 「どう、っていわれてもやるしか無いんじゃない。お祖父さんも頑固な人だもの」
 バケツの中の水で濡らした雑巾を固く絞り、掃き清めた床を拭く。ミアキは小さなはたきと布巾で、本棚に収められた分厚い書物や硝子戸棚の中の鉱石の埃を丁寧に拭っていた。
 「お祖父さんも家政婦さんももう良い歳だろうしねえ、この部屋を掃除するのはきっと骨が折れるよ」
 「なんだか良いように使われている気がするなあ」
 唇を尖らせながらもミアキは緑柱石の鉱物標本にそっと息を吹きかける。黒い雲母片岩の母岩から覗くエメラルドが、濡れ羽のようなミアキの瞳にきらきらと翠の光を反射した。
 「ミアキ、奥の戸棚は掃除しなくていいよ。どうせ開いてやしないんだから」
 書庫の再奥には紫檀でできた頑丈そうな戸棚がある。中に何が入っているのか僕もミアキも知りたがったが、何故か祖父はその中を見ることだけには首を縦に振らなかった。
 勿論僕もミアキもなんとか戸棚を開けてみようと様々な手を試みたが、真鍮製のノブはびくとも回らなかった。
 祖父に中身を訊ねてもはぐらかすばかりで、いつからか僕たちは戸棚への興味をなくしていた。
 「スイ」
 小さく自分を呼ぶ聲に、僕は顔を上げた。
 ミアキは部屋の奥で、布巾を持ったまま立ち尽くしている。
 「戸棚の鍵が開いてる」
 信じられないと言いたげなミアキの聲に、奥の戸棚へと駆け寄った。小さな紫檀の扉は確かにわずかに開いていた。
 「さっき床掃除をしていた時から開いていた?」
 「わからないよ。でも開いていたらすぐにわかる。ずっとこの部屋にいたんだから」
 この部屋にはまだ誰も入ってきていない。
 祖父が大切にしていた秘密を開け放したまま、書庫の鍵を閉めるというのも考えにくい。
 僕たちは恐る恐る顔を見合わせた。
 「・・・それで、どうする?」
 「中身を見るだろう。決まってる」
 ミアキはごくりと一度唾を飲んでから、ゆっくり、だがしっかりと金いろのノブに手をかけた。ぎぃ、と微かに抗議するような軋みを残して、扉はあっけなく開いた。

 一瞬、中が空っぽなのかと錯覚しそうになった。
 それほどに中は殺風景だった。
 僕とミアキが息を詰めて覗き込むと、忘れ去られているかのように一冊の本が置かれていた。それで全てだった。
 「何の本だろう?」
 ミアキの言葉に、迷わず分厚い古書を手に取る。ひっそりと冷ややかな温度だった。
 ずっしりと重いその本は、夜明け前の夜天のような紺青いろの絹でくるんであり、銀の糸で飾り罫に縫い取りが施された美しい本だった。
 相当古いものらしく、中紙は茶色く陽に灼けて、表紙もところどころ擦り切れている。
 「・・・この本、タイトルと著者の名前が載ってない」
 本をぱらぱらとめくりながら呟くミアキに、僕も頷いた。
 書斎から祖父の足音が聞こえないか耳を澄ませた後、僕たちはそっと中身を読んだ。
 中はどうやら小説のようだった。

 ・・・―沢山の人は何かしらの悩みや心の問題を抱え、それを癒してくれる彼女の物語を欲しがった。
 『たとえば現実に疲れ果て、何もかもを捨ててしまいたくなった時、一冊の本が救いになったりすることがあるでしょう』―
 
 ―『魔女も、現実に傷付けられたことがあるの』―

 ―笑われやしないかと冷や汗をかいたが、魔女はおおいに喜んだ。
 『弟子を持ったのは初めてよ』―

 ―万年筆は澄んだ海のようにこっくりと濃い蒼いろの、薄く削ったセルロイドでできていた。―

 ―同じように朽ちかけた生垣で、ただ紫陽花だけが変わらず咲いていた。

 「魔女って、誰」
 「さぁ」
 「この話、お祖父さんが書いたのかな」
 ミアキの言葉に首をかしげる。
 もし祖父が書いた本だとしたら、表紙にそう記されている筈だ。そもそも一冊だけ大切にしまいこんでおく理由も分からない。
 いつの間にか陽は傾き、蜩の聲が聴こえてくる。
 「あっ、」
 不意にミアキの上げた聲に、僕はびくりと肩を揺らした。
 ミアキは本の裏表紙の内側を開いていた。
 そこに濃いブルーの洋墨で、星座のようなものが小さく描かれていた。一際大きな星に、星の名前らしき文字が走り書きされている。細くて綺麗な筆跡だった。
 「『a Mira』・・・くじら座の星だ」
 天体に詳しいミアキが、ぽつりと呟いた。