それでも紫陽花は咲いていた #8 「記憶という精神疾患についてのカルテ」

第25期(2016年2月-3月)

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 鈍色の低く垂れ込めた雲から銀の糸が降ってくる。幾筋も注ぐ雨は土を濡らし、青々とした独特の匂いを放った。
 「ペトリコール」
 僕は知らずのうちにつぶやいていた。雨が降りだして土を叩き始めた頃合いの匂いを、そう呼ぶらしい。
 開け放していた窓からは細かく霧のような水滴が吹き込み、真白のカーテンをしっとりと濡らした。書きかけの書類は窓際の机に放置していたため、瞬く間に洋墨が滲んでゆく。
 やれやれ、と頭を掻きながら開けっ放しの窓を閉めようと立ち上がり、庭に人影を見つけた。
 ずぶ濡れで立ち尽くしているのはどうやら若い男らしい。大きな荷物を背負い、丈の長い重たそうな羊毛のコートを着ていた。
 こんな雨の日にわざわざ訪ねて来るのは、よほどの急ぎの用か、よほどの変わり者かのどちらかだ。
 まったくこちらもまだ病み上がりだと言うのに。僕はげほげほと小さく咳をしながら玄関へと回った。
 「今日の午后は休診なんですが。急患ですか?」
 白衣のポケットに手を突っ込んだまま喋る僕は、男から見たらさぞ不遜に見えたことだろう。けれど男は少しだけ驚いた顔をしたきり、文句の一つも言ってはこない。
 「いや、急患という訳じゃあ、無いんだが・・・どうも、いや、あんたの話を街の人からいろいろと聞いて、あんたなら、治せるんじゃないかと・・・」
 「何を?」
 しどろもどろに話す男に僕は訊ねた。
 「つまり、その、俺の病を」
 男は思い切った顔で呟いた。

 雨は強くなる一方で、窓の玻璃を叩く雨音は少しずつ大きくなっている。
 診察室には何もない。あるのは病的に白いカーテンと、同じ色の敷布を敷いたベッドと、薬棚と机だけ。
 壁もカーテンも天井も机も僕の白衣も、何もかもが白いこの診察室で、窓辺に差した紫陽花だけが青かった。温室栽培の蒼色は何処か空々しく、色あせているかのように作り物めいていた。
 男は白い椅子に所在なさそうに腰かけ、濡れた髪や服を拭いていた。
 歳は二十代半ばといったところだろうか。特に主だった特徴はないが、どことなく素朴で実直そうな顔をしていた。瞳の色が美しく、角度によって淡い青にも、グレイにも見えた。
 「それで、今日はどういった症状で?」
 僕は色んな病気を診る。歯と心以外なら、それこそおたふく風邪でもはしかでも骨折でもなんでも診る。
 けれど、男の言葉はそんな僕をも困惑させた。
 「恋人のことが、思い出せないんだ」
 男の言葉に、僕はカルテに走らせる万年筆の手を止めた。
 「それだけですか?」
 「それがすべてだ」
 男が言うには、初めは聲からだったという。あんなに聴きなれていた筈の彼女の聲が、いくら考えても出てこない。まるで記憶の抽斗そのものを何処かへやってしまったかのように、全く想い出せないのだと言う。
 次は日記だった。毎日の習慣で書き綴っていたはずの日記の内容が、恋人の記述だけは他人が書いたようにまるで身に覚えがない。自分と全く同じ筆跡の赤の他人が、自分の日記に嘘偽りを書き加えたとしか思えない程、まるで身に覚えがない。
 「それでも恋人を愛する気持ちは残っていたんだ。・・・俺は今でも、彼女を本当に愛している。彼女のことを考える度に愛しくて愛しくてたまらない。なのに、何一つ確かなことが想い出せないんだ。そのうち、彼女を愛しいと思うこの気持ちまで忘れてしまいそうで、それが今は一番怖い」
 男は顔を覆って、たまらない、とでも言うように長い溜息を吐いた。
 「なら毎日恋人に会いに行って、思い出させてもらえばよいのでは?」
 「それは無理なんだ。彼女は旅をしていて、もう俺の街にはいない。もともと何処かから俺の街へやってきて、それで恋仲になったんだ」 
 もうこの街にいない女性を恋人と呼び、傍にいないからこそ零れおちてゆく記憶に嘆く。なんとも切ない話だ。
 「恋人とはどうやって知り合いに?」
 「彼女は旅行で俺の街に来たと言っていた。俺が住んでいた街は夜、星が何処よりも綺麗でな。空気が澄んだ高地にあるから星が良く視える。『星天に一番近い街』という呼び名がある程だ。彼女はその星と、街の外れにある天文台を見に来たと言っていた。俺はその時街の案内役をしていたんだ」
 案内をしているうちに二人は惹かれ合い、恋仲になったのだと言う。
 「あの宝石のような青い瞳も、桜いろの唇も、細く長い指も、片時も忘れたことはない。なのに、あの唇がどんな愛の言葉を紡いでいたのかは全く想い出せないんだ。これ以上の悲劇があるか?」
 「名前は?」
 僕の問いに、彼はきょとんと目を瞬かせた。
 「恋人の名前は、覚えていますか」
 男は質問をよく噛んで吟味するように黙ったあと、ゆっくりと言った。
 「・・・知らない。名前を訊いていない。が、自分で彼女は自分のことを『魔女』と呼んでいたよ」
 僕がカルテを書く手をぴたりと止めたことを見咎めて、男は怪訝な顔をしたが何も言わなかった。
 「その魔女は、どこへ?」
 「分からない。ある日突然取っていた宿を引き払って、その日のうちに街を出ていた。俺が隣町へ買い出しに行っていた日のことだった」
 恋人へ行き先も告げずに、突然姿をくらますことなどあるのだろうか。
 「離れ離れになってから、手紙はもらいましたか?」
 「いいや。彼女は俺の前で字を書く事が無かった」
 暫くの沈黙と、雨の音だけが部屋を満たしていた。
 「・・・俺の住んでいた街に、『星見病』という病がある。星を夜眺め続けると、大切なものが消えてしまうんだ。・・・ピアニストの聴力とか、画家の視力とか、好いた人間の記憶とか」
 「自分がそうだと?ならあなたの街の医者に診せた方が確実ではありませんか?少なくとも、私は聞いたことのない病だ」
 前例がいくつもあるならその方がよほど確実だ。けれども男は溜息を吐いて首を横に振った。
 「医者にも何人も診せた。でもあいつらは、俺が星見病じゃないって言うんだ。もっと別の病だと。だから街を出て、彼女を探しながら病を治すことにしたんだ」
 「街の医者たちは、他には何と?」
 男は窓を叩く雨粒を眺めながら物思いに耽るように、目を細めた。
 「もう一つ、妙な事も言っていた。『あなたに恋人はいない』と」
 万年筆が紙をすべる音が止んだので、男はこちらを向いて笑った。
 「おかしな話だよな。俺も、街の人間も、彼女の顔はちゃんと覚えてる。日記にだって彼女の事が書いてあるんだ。そんな事を言うなんて、からかっているとしか思えない」
 ほら、と男は胸元から銀の鎖を外し、僕に手渡した。それは小さなロケットだった。
 「聲を忘れたとしても、せめて顔は忘れないように、いつも持ち歩いているんだ。彼女が俺に残してくれた唯一の写真だ。いつもそれを見ている」
 銀に光るロケットには唐草模様の美しい細工が施してある。僕はそっと蓋を開け、目を細めた。
 「・・・・・・美しいひとですね」
 そうだろう。そうはにかむ男に、僕は空っぽだったロケットを返した。