それでも紫陽花は咲いていた #9 「魔女の指」

第25期(2016年2月-3月)

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 新宿駅の東口を抜けて、電光掲示板の大きな画面を横目に見ながら交差点を渡れば、紀伊国屋や三越の古いビルディングが視えてくる。周りは様々な言語を話す人々が行き交い、人いきれと車の排気、舞い上がる塵や埃で喉が噎せた。
 私の住んでいた街とは全く違う、現実を生きる街。
 私は今年二十歳になった。義理の父と母親が住んでいる街から引越し、今は一人暮らしをしながら美術大学へ通っている。もう誰に気遣う必要もないと言うのに、今だに髪は短く切り、男物のシャツとジャケットなどを着ているものだからよく男性に間違えられる。
 慣れというものは恐ろしいものだ。今更女らしい格好などしても落ち着かないし、動きやすいだぼだぼとした服は気に入っている。
 
 どんな格好をしようが、どんな言葉遣いで話そうが、どんな風に他人から見られようが、自分のたましいに誰もラベルは貼り付けられない。そのことを私はもう知っているから、大丈夫だ。

 「久しぶりだね」
 突然擦れ違いざまに聲をかけられ、私は驚いて現実へと引き戻された。
 聞き覚えの無い、しかし何処か懐かしい響きのする聲に振り返る。
 雑踏の中に似つかわしくない、シミの一つもない真白の白衣を着た男が此方を見つめていた。
 「大きくなったね。憶えているかな、僕の事」
 銀縁眼鏡の奥の目を眇めながらポケットに手をつっこみ、ぶらぶらと長い手足を持て余し気味に歩いてくる。
 「・・・医者、」
 名前は知らない。あのひとが呼んでいなかったから。私も聞くつもりが無かったから。
 あのひとの家で過ごしたひと夏の間、一度だけ会った事のある相手だった。私は彼が好きでなかったし、それは態度となって彼に充分伝わっていたから、彼自身よくわかっていたはずだ。
 まさか、こんな場処で再会するとは思わなかった。
 信号が赤に変わり、医者は私を促して横断歩道を渡りきる。さっきまであんなに煩いと思っていた車のエンジン音も、けたたましい雑音を発する電光掲示板も、人々の喧騒も、何も聴こえない。
 「元気だったかい」
 本当に微かな、囁くような医者の聲もすぐそばで聴こえるように鮮明に耳に届いた。
 「君に会いに来たんだよ」
 親しい友人に話しかけるように笑う医者に、反射的に嘘だ、と思った。
 「嘘」
 「嘘じゃない。けど、君のほうはついでかな。『標本水族館』が閉館すると訊いて、最後の見納めに来たんだよ。なんでも館長をしていた小説家の老人が亡くなったらしい。このあたりを通れば、君に会えるかもしれないと思っていた」
 標本水族館、という耳慣れない言葉に首を傾げると、白衣のポケットからチケットを一枚差し出した。
 「君も観に行くといい。きっと何か面白いものが見つかるよ」
 まだ端の千切られていない入場券は、粗末な緑色をしていた。
 「まだ、物語は書き続けているかい」
 医者の言葉に、私は緑のチケットから目を離した。
 今でも物語を書き続けている。そう断言できるものを、私はまだ書き上げていなかった。いくつも新人賞やコンクールに投稿した。たくさんの物語を、学校へ通う傍ら身も世もなく書き続けた。けれど、あのひとに胸を張って読ませることのできる話をひとつでも書いただろうか。
 「・・・あまり、書いてない」
 言葉に詰まった挙句、そんなぶっきらぼうな言葉だけが唇からこぼれた。
 何を言っても言い訳に聴こえてしまう気がして、口を閉ざすしか無い。離れていても、二度と会えなくてもあのひとと私を物語が繋いでいた。それだけが唯一、あのひとの弟子であるという証明に他ならない気がして、私は下手くそな小説を綴り続けた。
 「誰が読むかは関係ない。書き続けなければいけないよ」
 医者の静かな言葉に、私は彼の顔を見た。
 「君が彼女の弟子でありたいならば。書くんだ。なんでも良いから書き続けるんだ。さぁ」
 さぁ、と語彙を強めた言葉は私の耳を通って、胸の奥まですとんと落ちた。
 「・・・言われなくとも」
 書くよ。そう言えば、医者は珍しく満足げに笑った。
 「それを言うために、わざわざ此処まで?」
 「言っただろう、標本水族館を見に来たと。君はそのついでだよ」

 「あのひとに会ったら、これを返しておいて。昔、返すのを忘れたままだったの」
 私は持っていた鞄を開けて、革製のペンケースを取り出した。肌身離さず持っていた、彼女に借りた青い万年筆だ。ずっとあの日々が夢幻で無いと証明してきた、私の御守りだった。
 ケースから取り出して手渡した青色のペンを、医者はじっと思案げに見つめていた。そして、無言でこちらに突き返してきた。
 「・・・どうして?」
 「これは、彼女から君への餞別だ。君が持っておいで」
 とても嫌そうな顔で言う医者に、私は首を傾げた。
 万年筆を押し返す手には、銀の指環が嵌っていた。何かの星座が彫ってあるそれは、あのひとが嵌めていたものとよく似た指環だった。
 「この星座は何?」
 医者は私の視線に気づくと、万年筆を返してから自分の指環を撫でた。
 「一番大切だったもの。・・・鯨座の一等星、『ミラ』だよ」
 銀の眼鏡の奥の瞳に、私は彼に自分と同じ気持ちを見て取った。
 「僕は君が嫌いだ」
 「うん。私もあなたが嫌いだよ」
 そうだろうと思った、そう言って屈託なく目を眇めて笑う医者に、私も曖昧に笑みを向けた。
 「・・・魔女のことを、愛していたんだろう」
 「・・・・・・。」
 「・・・僕もだよ」
 静かな言葉には、親愛の気持ちと、ほんのひと匙の独占欲が滲んでいるような気がして、嗚呼、この男は人間だったのだと、不思議な感動を憶えた。
 「私は、今でも、だよ」
 小さい秘め事を打ち明けるように呟くと、医者はそうか、と小さく笑った。
 「元気で」
 その言葉を最後に、喧騒は戻ってきた。
 私は呆然と道の真ん中に立ち尽くしたまま、医者の消えた雑踏を見つめていた。
 手にはまだ、緑色のチケットが握られている。裏に住所が記載されていた。

「ようこそ、標本水族館へ」
 大理石で出来た門をくぐり、薄暗い広間へと通された。

 案内人の学芸員をしている男は愛想のよい笑みを浮かべている。歳は二十代半ばといったところだろうか。黒い髪をきちんと撫で付け、仕立てのよいスーツを着ている。
 「標本水族館といっても、此処は見ての通り水族館ではありません。館長だった祖父は、世界中から蒐めた標本や剥製、骨董品をこの場処へとしまいこんでいました。
 古きものには渡り歩いてきた歴史が背負われている。そう考えた祖父は、展示物を眺めることによってその歴史の間を泳ぐ、謂わば来館者たちを魚へと見立て、この場処を大きな水槽へと見立てたのです」
 ホルマリン漬けの蛇や蛙や魚が壁一面に並び、透きとおった液体にゆらぐ様は、そうでなくても水槽の中を眺めているかのように錯覚できた。
 「祖父が去年逝去し、博物館の維持が難しくなりました。見ての通り、今月で閉館だと言うのにお客様の姿も貴女以外にはありません。誰に遠慮することもありません。じっくりご覧になってください」
 男は沢山の物語を饒舌に、しかし密やかな聲で語って聞かせてくれた。
 数十人の女性の首を飾り、その命を奪ったルビーの首飾りや、雪の女王の城の一部だったと言われる程大きな、一抱えほどもある藍柱石の結晶。魔女狩りに使われた釜や、ギロチンなどの処刑道具。人魚の剥製標本。
 「私の祖父が、一等大切にしている品がありました。長らく親族の誰にも見せたことのないものでしたが、この度祖父の遺言で最後に展示する運びとなりました」
 「私が幼い頃、従兄弟と二人で祖父の家にある書庫に出入りすることが大好きでした。書庫の中には祖父の書いた本や、世界中から蒐めた書物とコレクションが大切に保管されていたのです。その古い匂いを嗅ぐことが、私の幼い胸を何より高鳴らせてくれました。
 ある日、従兄弟の水明と二人で一冊の本を見つけたのです」
 こつこつと、高い天井に二人分の足音が響いた。男が最後の扉を開けた。
 「あの時は本の意味も、何故祖父があんなにあの本を大切にしていたのかも分からなかった。けれど、祖父にこの品の展示を言い付かった時に私は気づいたのです。祖父は、見たこともない物語の中の魔女に恋をしていたのだと」
 まじょ、と私が呟いた言葉は、男の耳には届いていないようだった。
 部屋は薄暗くランプで照らされており、中央に硝子ケースがひとつだけ鎮座していた。
 天鵞絨でくるまれ、分厚い硝子と柔らかい光に守られた品を、男は指で指し示した。
 「これが、『魔女の指』です」

 透明に透き通る軸とペン先。黝く残る洋墨のあと。
 あのひとがいつも使っていた硝子ペンが飾られていた。