『百人一首』のはなし

第30期(2016年12月-2017年1月)

こんにちは。
今日は百人一首を取り上げていきます。
『百人一首』の名は、100人の歌を1首ずつ撰んであることに基づき、室町時代からこの名で呼ばれるようになりました。しかしその後、類書がいくつか出てきたのでそれらと区別するために「小倉百人一首」などとも呼ばれています。小倉と名が付くのは、撰者といわれる藤原定家の山荘が今の京都市右京区嵯峨野の小倉山にあっためです。

『百人一首』は、天智天皇・持統天皇に始まり、後鳥羽院・順徳院に終わる100人の歌をほぼ時代順に配列しています。100人の歌を細かく概観すると
男性…79人(天皇7、親王1、官人58、僧侶13)
女性…21人(天皇1、内親王1、女房17、母2)
このように見ると、全体として官人が多く、宮廷社会属する人が多いことがわかります。

ついで100首の内容を分類してみると
恋…43、四季…32、雑…20、羇旅…4、離別…1
となり、恋の歌が多いことに気づきます。これはおそらく、定家の晩年の志向、有心妖艶を求めていたからではないかと思われます。

『百人一首』に採録されている歌はすべて古今集以下の勅撰和歌集(天皇自ら作成を命じた和歌集)にあるもので、元々は
古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞歌集、千載集、新古今集、新勅撰集、続後撰集
といった歌集に属しているものです。

ここで100首すべての解説はさすがに無理があるので、 番目の歌をご紹介いたします。

【京都の常寂光寺にある小倉百人一首編纂地の碑】

【京都の常寂光寺にある小倉百人一首編纂地の碑】

【1.天智天皇】
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

口語訳:秋の田のそばの仮小屋の、その苫の目が粗いので、わたしの袖は漏れる夜露に濡れている。

百人一首はこの天智天皇の歌から始まるのですが、この歌は田園情緒の雰囲気が現れているのが特色であり、「かりほの庵の苫をあらみ」には仮に作った庵の質素な様が表されています。「秋の田のかりほ」には「仮庵」と「刈り」が掛けられてあり技巧ある表現ですが、どこかさりげなく使われているような、あまり目立たない感があります。

暮れゆく晩秋にただよう静寂な田園風景を述べた歌ではありますが、それほど佗しい感じではなく、私も田舎に生まれ少年時代を田畑に囲まれて育った身としては、こういう歌は深く心打たれるろころがあります。

【天智天皇(Wikipedia)】

【天智天皇(Wikipedia)】

【2.持統天皇】
春過ぎて 夏来にけらし 白たへの 衣ほすてふ 天の香具山

口語訳:春が過ぎて、夏が来たらしい。白い着物を干すという天の香具山に今、白の夏頃もが鮮やかに干されている。

この歌には元々、万葉集に採録されている

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山

という原歌があります。
万葉歌では二句切れ、四句切れ、体言止めと技法を凝らしており、簡潔ながらも力のこもった調べがあり、衣の点景により季節の推移を詠う女性らしさが伺える感覚の新鮮さがありました。新緑に覆われた香具山(奈良県橿原市に今もあります)の実景を藤原京大極殿跡あたりから眺めてみると、萌え上がるような飛鳥・奈良時代の宮廷の気運の高まりを見ているかのように感じられます。

しかし、持統天皇の御代より数百年後の鎌倉時代に成立した『百人一首』に採録された歌では、原歌では4句目が「干したり」となっているのに対し、「ほすてふ」というように調べがなだらかになり、どこか脱風景の印象を強く受けます。

【持統天皇(Wikipedia)】

【持統天皇(Wikipedia)】

【9 小野小町】
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

口語訳:桜の花の色はむなしくも褪せてしまった、長雨が降り続いた間に。夜を過ごすごとで、私が物想いをしていたうちに。

この歌には和歌の技法が多く込められています。
「世にふる」の「世」には「世代」と「男女の仲」の意味が、「ふる」には「雨が降る」と「年が経る(年をとる)」の意がそれぞれ掛詞として用いられています。「ながめ」には「眺め(物思い)」と「長雨」の掛詞。さらに「長雨」は「降る」の縁語になります。

古来、「小町」というと美姫の代名詞だってわけですが、古注釈には「あはれなるやうにて強からず、いはばよき女の悩める所あるに似たり」とあり、美人薄命の代表のような存在でもありました。小野小町のいた平安時代には、歌の上手な女性が美人といわれていたわけです。在原業平が美男だというのも歌に巧みであったからこそ美男子だったわけで、このふたりを今風の解釈で美女美男とみると、異なってきてしまうわけです。

ところでこの歌。女性の煩悶の情を述べており、かつナ行音が2・3・5句目の末尾に繰り返されることで柔らかい調子になっていますが実際には、粘り強く、男にすきをみせない「女房歌」の伝統で掛言葉・縁語の多用でじつにしっかりとした歌なのだという印象を受けます。

【小野小町(Wikipedia)】

【小野小町(Wikipedia)】

【15.光孝天皇】
君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ

口語訳:あなたに贈るために春の野に出て若菜を摘む。その私の袖に春の雪が降っている。

この歌の作者光孝天皇は54歳で即位しました。おそらくこの歌は即位前、まだ若い頃に詠んだ歌なのでしょう。「君がため」とはもちろん交際相手の女性を指しているのでしょうが、この表現は万葉時代にも多く用いられているので、この時代(平安時代)にはすでに歌詞となって実感の伴われない形式化されたものとなったのかもしれません。

「ふりつつ」というのは詩的強調で、このように文末に使われると、反復継続の意味だけに加えて余情を伴うことになります。「私の袖にはまだ雪が残っているのに」というぐらいの意味に捉えれば良いでしょう。

万葉時代に
君がため 山田のさわに ゑぐつむと 雪消水に すそぬれぬ

という奈良時代の農民の作った歌がありますが、歌となると農民も権力者もかけ離れた感じがしないのは、なんとも不思議なものです。

【光孝天皇(Wikipedia)】

【光孝天皇(Wikipedia)】

【31.坂上是則】
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪

口語訳:夜がしだいに明けていくころ、有明の月の光がさしている。といっとき思うほどに、吉野の里に降り積もっていた白雪。

夜明けの月がまだ上空に一面を煌々と照らしているかのように、吉野の里には一面の雪が降り積もっている。そんな実景を目の前に広がる実感として、そのままに詠んだ歌と捉えられます。百人一首中でもまれに見る、作り物ではない、素直な詩情をたたえた作品です。作者坂上是則が大和国に旅をし、吉野に至り、雪の降った時に出会った体験そのまま詠った作品なのです。

「平面かつ平坦」というのがこの歌に対する私の印象でしたが、純粋な叙景歌であり、先に述べた小野小町の歌のように多くを語らせないところがこころよい。作り物に恋愛感情などが紛れ込んでいないのがすがすがしい1首です。

吉野の山というと、桜を思い浮かべる方も多いでしょうが、この歌に歌われているのは吉野の山を埋め尽くす積雪。それが月光の下に照らされて幻想的な光景だったのでしょう。吉野は大和の国(今の奈良県)にありながら眼前に広がる別世界。私たちよりもはるか遠い世界にもそうでありました。古代・中世の人にとっても神秘の境地だったのでしょう。

【坂上是則(Wikipedia)】

【坂上是則(Wikipedia)】

【99.後鳥羽院】
人もをし 人をうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

口語訳:人がいとしくも思われ、また恨めしくも思われる。おもしろくもなく、世の中のことを思うために、物思いをする、この私は。

後鳥羽院といえば、1232年に鎌倉幕府打倒を企て失敗した人物として知られていますが、もともとはとても風流な人でした。『新古今集』には「見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べを秋となに思ひけむ」という後鳥羽院の歌があり、院の歌の世界には優艶・華麗な雰囲気が立ち込めています。

『百人一首』のこの歌には、「人もをし」「人もうらめし」と、まず「人も」の語を重ねて「をし(「いとしい」の意)」「うらめし」の語を対立させて、院の心情の揺らぎがみごとに表現されています。さらに「世を思ふ」「物思ふ」と語の繰り返しによって、院の情念がより深く揺らぎはじめているのです。

この1首は承久の乱に先立つこと9年。時の権力者であった北条氏との対決も辞さなかった院の意思の噴出が、この歌より感じられるような気がします。『百人一首』の編者が、院の心の幽暗部から発したものとしてこの1首を採録したのは、とても興味深いものです。

【後鳥羽院(Wikipedia)】

【後鳥羽院(Wikipedia)】

【100.順徳院】
ももしきや 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりける 昔なりけり

口語訳:宮中の古びた軒端に生えたしのぶ草を見ると、つい昔のことを偲ぶのだが、いくら偲んでも偲びきれず、限りなく昔の御代がなつかしい。

『百人一首』の最後を飾るこの歌は、順徳院によるものです。順徳院はこの歌を詠んだ数年後に、父・後鳥羽院と共に承久の乱に加担することになります。歌の内容をみると懐古的な述懐歌であり、おそらく乱に備えて慌ただしい日々を過ごしていたのでしょう。この歌はお世辞にも秀歌とはいえず、後世にはこの歌をもじった狂歌

股引(ももひき)や 古ふんどしを 質に置き 今朝のさむさに ◯◯◯ちぢまる
(* ◯は自主規制)

などという歌もありました。

【順徳院(Wikipedia)】

【順徳院(Wikipedia)】