「古典を読む」ということ

第30期(2016年12月-2017年1月)

先日塾で教え子と古典の話をしていて、こんなことを言われました。

「ぼくは古典を学ばなければならないことに疑問を感じている。国語の先生や、大学で古典を研究し新しい事実を発見したい人には大事なことなのかもしれないけれど、日本人全体が中学高校で半ば強制的に古文という読みにくいものを現代語に訳して読まなければならないのは苦痛だし間違っている。この不安定な世の中で古典を学ぶことに一体どのような意義があるのだろう。将来の仕事に古典が役立つとは思わないし、日常会話や仕事上の会話古語で話すこともなければ古典の話をすることもほとんどない。だから国文科には行きたくない。『源氏物語』とか『徒然草』と名前を聞けば、知らない人はいない。でも、その存在を知っていても、内容が分からない人の方が圧倒的に多いと思う。結局古典作品というのは、教師や研究者たちの間だけで受け継がれているだけであって、世間で働いている人たちにとっては何の関係もないものだ。中高生にとっては、古典が国語教育に組みこまれているから仕方なく学んでいるだけで、大人になって読みたいものだとは思えない」

いま、このように思う人がたくさんいることは間違いないし、高校の国語の必修単位数が以前より減らされているという現状もあります。僕が塾で古典を教える機会も少なくなってきています。

古典が必要なくなる…グローバル化と言われて久しいこの時代に、アイデンティティの根拠としての古典はもはや必要ではないのでしょうか。この国の近代は新しい国家の建設を目指すにあたって確実に古典を必要としていたし、古典に内包されるさまざまな意味にも確実に意義があったのですが、しかしそれは100年も前のことだから、今となってはもう古典は無用の長物なのでしょうか。

現代日本語とは語彙も異なれば文法も少し違う、そんな古典を読んで理解するのは手間も時間もかかる。それでも僕は古典を読むし、大学院に所属するわけでもなく、在野の人間ではあるが研究を続けていく。それはなぜなのか…と自分に問いかけることもしばしばなのですが、正直、その答えが見出せないのはたぶん僕の修行がまだまだ足りないからなのだと思います。

【万葉集】

【万葉集】

古典作品の解釈は、時代によって変わってくることが多いのですが、そのことについて『古事記』の研究で有名な国文学者の西郷信綱は次のように言っています。

「享受の中身は時代で変わってきているはずで、またそれはこれからさきも必ず変わっていくだろう」(『日本古代文学史』岩波書店、1963年)と。

古典作品といってもたくさんの種類があるわけですが、それこそ奈良時代末期に成立して『万葉集』などは成立してから1300年近く経っているわけで、その間に多くの研究者が様々に解釈を行い意味の異動は時代によって大きく左右されることがあります。時代が降り研究者も変われば、同一作品であっても解釈が大いに異なることもあり得るのです。

西郷は続けて以下のように述べます。

「誰がどのように作品を読むかということを離れて作品そのものの永遠性を論ずると、どうしても形而上学を作り上げる仕儀になる。作品そのものというようなものはどこにも存在しないし、誰にも経験できないであろう。では、古典と呼ばれるものはどこにあるのかといえば、それは過去と現代のあいだ、つまり過去に属するとともに現代にも属するというほかない…(中略)…現代人に対話を呼びかけてくれる力をもったもののみが古典であり、そしてこの過去と現代に同時に属するもの、歴史的継起後秩序における1つの特殊な人間活動としてとらえようとするのが文学史の役目ということになるだろう」

古典といういわば奇妙なものが古代より連綿と受け継がれてきたからこそ「過去にも現代にも属する」のであり、ゆえに「現代人に対話をよびかけてくれる力」を持っていると西郷は言っているのです。作品を読むということは、作者や作品の語り手と「対話」をすることであり、西郷に言わせれば作品の方から私たちに対話を求めてくる、ということなのです。

しかし実際には、たとえどんなに作品が呼びかけてきても、私たちは古典を遠ざけてしまいます。古典を読むにあたっては、作品そのものだけを読んでも理解できず、辞書や古典常識が必要だからです。さらに古典研究は今現在も多くの研究者によってなされており、積み重ねられた知見はひとりではとても把握できないほどの膨大な量に及び、ますます精緻化・細分化されてきているのです。
だからといって、既成芸術の枠内で学者たちによって細かい差異を論じるために古典作品が存在しているわけではありません。誰もが「読んで楽しい」思えるものでならなければならないのです。

【源氏物語】

【源氏物語】

古典を読むということは 、そもそも何を読むということなのか…
一度「文学」に話を広げていきますと

「文学というのは、古今東西を問わず、人の営為を良くも悪くも言葉で表現したもので、人間精神の表現に関するものであり、私たちの精神をいかに巧みに、効果的に、演出的に表現できるかということを出自としている。文学は作者個人の一回的な表現を乗り越え、世代間に伝達されうるものであり、時代を経ることによって、その継承と進化発展を可能にしていく」

これは僕が昔書いたものなのですが、 文学という既成芸術の中で幾年かの時代を乗り越えて享受されてきたものが「古典」なのです。古典を読んでみると、じつは昔の人たちも今を生きる私たちと同じようなことに喜び、悲しみ、怒り、楽しんでいたのだということがわかります。

【古今和歌集】

【古今和歌集】

僕は今、塾講師の傍らで、「古典作品にみる鎌倉」というテーマで月1回の講座を開いています。『万葉集』『徒然草』『とはずがたり』など鎌倉が描かれている古典作品を取りあげているのですが、作品の中には必ず、当時生きた人たちの声・いとなみ・感受性が反映されています。それらを共有できる場として、そして古典作品が今後も文学の一部として少しでも多くの人に親しんでもらえるよう、ささやかな試みではありますが、これからも続けていこうと思っています。

冒頭での教え子の発言とおり、古典を読んだところで実社会ではあまり役に立ちません。しかし西郷の言うとおり、作品は私たちに対話を求めて来て、その対話に臨む気持ちが私たちにあれば、得られるものがたくさんあるはずです。