書物の運命

第31期(2017年2月-3月)

古本屋をやっているので、この先、本がますます読まれなくなり、その結果本が売れなくなるのでは、と少しは不安に思っている。書物という形ではなくても、今ならパソコンやスマホ、あるいは電子ブックで簡単に本を読むことができるからだ。

1995年に、OSとしてインターネットへの接続を標準搭載(正確には追加のバージョンアップで)したウィンドウズ95が発売され、その後1999年にアップルから、比較的安価で可愛い筐体のiMacが発売された。その結果、一気にパソコン、そしてインターネットが普及した。私は実体験として、この頃から急激に世界が変わったのを知っている。
フロッピーディスクがなくなり、CD-ROMがなくなり、今ではDVDもなくなりつつあり、ますます情報は巨大化し、そしてそれを入れる容器は小型化していく。その結果、いろいろなものがデジタルデータとなって、アナログなものはどんどん失われていく。本もその一つだろう。書物という形をとらなくても本を読むことができる。パソコンやスマホ、電子ブックなどで、およそ一生かかっても読み切ることのできない分量をポケットに入れて持ち運ぶことができる。

インターネットが普及し始めた90年代後半、専門家の中には、21世紀には本はなくなる、と断言していた人もいたようだが、今のところまだなくなってはいない。凶器にもなるような巨大な箱入りの百科事典はさすがに必要ないだろうが、それでもやはり本の需要は存在する。
なぜ本は必要なのか。いろいろな角度から考察するに、本というメディアがすべてにおいて、少なくとも今のところ一番優れているからに他ならない。

books1

当たり前の話だが、手のひらサイズの端末に何万冊分のデータが入っていても、電池がなくなれば読むことができない。当たり前なのだが、このことが結構重要なことなのではと私は思っている。他にもある。私は職業柄、戦前の本はもちろん、大正時代や明治時代、さらに遡って、江戸時代の和本を手にすることもある。ぼろぼろになっていて、やぶれている箇所もあるが、読めないことはない。本は単なるデータを入れておく端末ではない。データであり、それを収納しているハードウェアであり、ビューワーでもある。
一方、電子ブックはそれぞれが独立している。データと、それを記憶しておくチップ、そして液晶画面。これらのどれか一つでもおかしくなってしまったら機能しない。本が優れてるのは、それら三つが合体して、お互いを支え合ってより強固になっているからである。

グーテンベルクの活版印刷術から500年経った。500年を一つの区切りとすると、書物のデジタル化は一つの節目にはなったと思うが、活版印刷ほどの衝撃ではない。勝手な予想だが、現在を折り返し地点として、さらに500年後には、全く新しい “何か” が誕生するかもしれない。その時ようやく書物は消滅するのだろう。

約4000年前のハンムラビ法典が未だに現存しているのは、これが玄武岩という固い岩に刻まれた法典だからで、内容的にはフロッピーディスク一枚(約1.4MB)くらいのデータだが、もし、当時フロッピーディスクがあったとしても、それは4000年以上持たなかっただろうし、そもそもフロッピーやCD-ROMは、それ単体では全く意味をなさないから、岩に刻むという方法で後世に法典を残したかった、などと言うと、トンデモ本的な話になってしまうが、あえてその方向で話を進めると、もしかしたら、古代バビロニアの人々は、4000年以上前からフロッピーディスクはもちろん、CD-ROMやハードディスク、USBメモリのような記憶装置の技術を得ていて、しかし彼らは、この法典を4000年後、1万年後、いや、この地球が滅亡するまでずっと残したいと思ったから、あえてそれらメディアを使わず、玄武岩に刻んだ、、、と空想すると、なんだかすっきり解決しそうだが、それはあまりにもめちゃくちゃな話である。

さて、ともかく、少なくとも私が生きている間は本は存在しそうだ。本が消滅する前に私は死にたいと思うが、それは叶えられるのではと思っている。