非効率の優先

第32期(2017年4月-5月)

僕はどこかに出かけた帰りの電車で決まって先頭車両に乗る。
先頭車両ではなくて、最後尾でも構わない。
とりあえず、一番端っこの車両に乗るようにしている。

そうするようになったのはいつだったか忘れてしまった。
それでも、どの電車が最初だったかは覚えている。
大学に通うために利用していた西武新宿線だ。
西武新宿線の終点は西武新宿駅。
帰宅のための40分ほどの乗車時間はできれば座りたい。
そう思って空いている席を探して歩く。
車両の間の扉を開けて、次の車両へ。
扉に人が寄りかかっていたら、一度外に出て外から車両を乗り換える。
そうやって空いている座席を探していく。

西武新宿駅の改札は正面口と北口の二つがある。
立地の関係で正面口しかほとんど使われていない。
僕はいつも正面口から改札を渡り、空いている座席はないかと探していると
北口側の車両、つまりは先頭車両の方まで行ってしまう。

西武新宿駅から出発する電車は、本川越方面と拝島方面の電車に分かれている。
どちらも途中の小平駅までは同じ線路を使うため、日によっては
途中で乗り換えをしなくてはならない。
拝島方面の電車なら座り続けていて、本川越方面なら小平で乗り換える。
という具合だ。

小平での乗り換えは目の前にある車両に移るだけである。
しかし、それまで先頭車両に乗っていると車両の数が違うため、目の前に車両がない。
仕方がないから少し歩いて乗り換えることになる。
すると、乗り換えた先は混んでいるわけではないのだが、遅れて乗車した僕の座席はない。
そこから最寄り駅まではたいして長いわけではないのだが、ある日の僕は
トライアスロン部の練習の疲れが溜まっていて、短い時間でも座りたかった。

仕方がないので、空いている座席を探しに今度は最後尾の車両に向かって歩き始めた。
すると、僕はあることに気が付く。あそこに立っているのは
他大学のトライアスロンチームのO君ではないだろうか。

偶然の出会いに、嬉しくなって彼に声をかけた。
そして、僕は最寄り駅まで座ることなくしゃべり続けていた。

その日がいつ頃だったのかは忘れたけれど、それ以来僕は
途中に座席が空いていても先頭車両に座るようになった。

そして小平駅で立って最後尾まで歩いている。乗り換えがない日にもそうしている。
するとある日は、中学校の同級生と
ある日は高校の野球部の同期と偶然の再開を果たすことになる。
そのおかげで色んな人に再会した。

地元に帰るための電車だから、同じ電車に知り合いが乗っている確率は低いとしてもゼロとは言い切れない。
もしかしたら、予想外のあの人が同じ電車に乗っているのかもしれない。
そう考えて、先頭車両に座った僕は、途中から最後尾まで歩き始める。

そうしてまで会いたい人がいるわけではないのだけれど、
もう二度と会うことがなかったかもしれない人と会えたことは貴重なことではないだろうか。

これもまたいつだったか忘れてしまったのだが、誰かにこの話をしたときに
そんな効率が悪いことはやる必要がないと言われた。

確かにこの行動によって誰か知り合いに会うことは10回やって1回あるかないかの確率だ。
その人にとってみたら、「そうまでしないと会えない人なら、会いたいと思う人ではないのだから、会う必要はない。」
ということらしい。
確かにそうであるし、納得するのだが、僕は今でも先頭車両に座るようにしている。
これが非効率であることは分かっている。

「効率のいい練習をすること」
幼い頃から高校を卒業するまで野球を続け
大学4年間ではトライアスロンをしていた僕は
つまりずっとスポーツをしてきた僕は
この言葉を聞き続けていた。

野球にもトライアスロンにも
勝ち負けや目標があって、それを実現するためにどう練習するか
どうやったら効果的に近づくのか
と、考えさせられる。

練習を闇雲にするのではなく、自分で必要なことを考えて、
効率的な練習を追求していく。

それを実現するための工夫として練習日誌を書いて
過去の自分がどのような反省をしたのか確認したりする。
本番前にはそのノートの厚みが自信に変わったりもする。

その工夫の仕方は人それぞれだが、
その考え方自体を否定する人に出会ったことはない。

アドバイスをくれる人は
自身の経験や知識から、より効果的であると思われる手段を教えてくれる。

とにかく、僕は目標を達成するためには効率を重視することの大切さを教わった。
その競技のトップアスリートと呼ばれる選手は才能ももちろんだが
効率のいいと言われる練習を採用している。
事情があるならまだしも、あえて効率の悪いことを分かっていて実践する人はいないだろう。

効率の優先は当たり前のことだし、積極的に採用するべきことだと思う。

それでもたまに非効率の優先が圧倒的に大事になる瞬間が訪れる。
それが一体、なんであるのかはもう少し生きてから考え直してみることにしよう。