言葉の始まり

第34期(2017年8月-9月)

久しぶりにやってしまった。それなりに高い買い物だったから、勢いが大事だと思って確認を怠った。

古着屋で良さげなスラックスを見つけて、試着して気に入って、ろくに値札の確認もせずにレジに直行した。黒か灰色のスラックスをしばらく探していたから、着てみた上で気に入るようなら、議論の余地はないだろうと思った。翌日、早速着て出かけて太陽光の下で見ると、どうも色味がある気がする。

不安になって「これ黒に見える?灰色?」と聞いてみたら「緑だよ」と言われる。「緑のズボン買うなんて、珍しいと思ってた」だって。

 

大学に入ってから気付いたことだった。最初の冬に初めて自分でコートを買った。灰色のモケモケした生地のPコートだった。灰色。自分では灰色だと思って買ったのだけど、大学の友達はみんな口々に緑色だ、緑色のコートなんて物好きだ、と言ってくる。最初は指示する色の文化の違いかと思ったけれど、実家に帰ってもコートへの評価は変わらず緑色だった。

誰に薦められたか、ネットで色覚のテストしてみたら比較的強度の色弱という結果が出て、ようやく自分が、深い灰色と、茶色と、緑色の区別がついていないらしいことを知った。次の冬、そのコートは上着も買えず凍えそうな格好でキャンパスを歩いていた後輩にあげてしまった。

 

そういえば、図工の授業でクラスみんなで遠足して湖を描きにいったとき、初めて自分が描いた絵が先生に取り上げられて、褒められた。先生は、湖面の色がいいねと言った。表情の豊かな緑色だと。みんなウエダくんのように湖に隠れた色んな色を見つけましょうと。

僕はそのとき、なぜ自分の絵が取り上げられたのか分からなかった。僕の目には他の人の絵と自分の絵の違いがよくわからなかったけれど、取り敢えず湖の色にそれ以上手を加えるのはやめた。多分、自分で塗った色を自分で認識できていなかったのだろう。

家に帰ったら、褒められたことを母親に自慢した。その裏で一体何が褒められたのか、ずっともやもやしていたけれど、そのときは自分の頭ではまだ理解が追いつかない世界があると思うことにして、考えるのをやめた。

同じ頃、国語も音楽も嫌いな教科だった。書くことにも、読むことにも、歌うことにも苦手意識があったし、頑張っても人並みだった。音楽の方はまだ、ピアノを習っている子が得意なのは理解できたけれど、詩や小説が題材の国語の授業での先生とできる子達とのやり取りはさっぱり分からなかった。

例えば『ごんぎつね』の授業で「きっと兵十は……で、だから……だったんだと思います。」とか、利発に喋るクラスメートを見ていて、自分とは違う人種なんじゃないかという感覚すらあった。一体そんな推測だらけの話を、どうして真に迫って訴えられるのかと。感想文なんかは特に、頑張ってもできなかった。自分の感情を自覚して表現することが苦手だったのか、そもそも当時見せられた、読まされた、聞かされたものが心に響かなかったのか。みんながすらすらと感想を書いている横で、最初の一言も浮かばずに白紙の原稿の上でペンを回していた。今こうして、音楽についてつらつら書いていることなんて、むかしは想像もつかなかっただろう。

授業に取り残された経験や、解答用紙の上で苦悩した経験が、「みんなには感じ取れて自分は感じられない」、そういう自身の感受性への疑いとして積み重なっていった。

小さい頃は、自分は科学者や発明家になると信じていた。算数や理科が得意だったし、自分の感受性が問われる世界には行くまいと思っていた。でも、中学校の終わりあたりから風向きが変わってきて、大して勉強していない国語の方が偏差値が高くなった。高校では文転しろとしばしば言われたけれど、頑に拒んで理系で通して大学に行った。しかし大学には、電磁波の伝搬をイメージできるとか、素数に色がついて見えるとか、全く次元の違う才能がいた。

どうも自分には理系の方面に立派な才能は無いらしいと自覚して、どうにも行き場が無くなった。安易な発想で、科学と文芸との隙間なら住処があるんじゃないかと思って、SFを読もうとした。伊藤計劃とか、クリストファー・プリーストとか、グレッグ・イーガンとか、しかし、やはりよく分からなかった。改めて分かったのは、自分にエンタメを構造的に楽しむ能力はないということだった。

 

SF好きの友達にそんなことを愚痴っていて薦められたのが、ジャック・ヴァンスの『奇蹟なす者たち』という短編集だった。

読んでいるときに、コウマスの”First Utterance”を流していた。2編目の「音」ーある惑星に遭難した男が、自分の不可知の次元で存在しているその惑星の住民の活動を音楽として知覚して、次第に視覚、触覚で感じ取り始め、その住民達と交歓できるようになる話ーを読んでいるとき、2曲目の”The Herald”が流れてきた。それはまさに、レコードの盤面の溝の底知れぬ深奥から悪魔が覗いているような、分厚い異界の音楽の断片だけを知覚している感覚。

自分の知覚の彼方。はっきりとその世界があることを見据えて、必死に対峙しようとする遭難した男の試みと、自分の感受性にまつわる葛藤とが奇妙に重なって、聞こえてくるコウマスの歌の中に一層複雑な次元を見出した。知覚を超えて迫ってくる何かへの期待、その超越的な何かに浸っている快楽。「感じられないこと」への悔しさや不安を越えて。

 

さっきからその緑色の装丁の本を本棚に探しているのだけれど、見つからない。緑、緑、緑、僕にも知覚できる程度の明るさだったはずだけれど、放っておいたら濃くなることもあるのだろうか。灰色の本だと思って探すべきか。あるいは、本ごと僕の知覚の彼方へ行ってしまったか。