描くことは無類の光

第35期(2017年10月-11月)

物心ついた頃から、絵を描くことだけはずっと続けてきた。
大学四年生の頃にゼミの先生から絵を酷評されたとき、はじめて大きな挫折感を味わったように思う。

就職してからは仕事が忙しくなり、描くことはあくまで趣味と捉えることにして
自分のためだけに描こう、と割りきって描き続けた。

そして夏に鹿のような一本の木と出会った頃を境に、少しずつ絵に変化があらわれはじめた。

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最初は、木や葉っぱ、雲、壁のひび割れなどが別のかたちに見えるところから始まる。
多くの場合、それは生き物のようなかたちをして現れた。

何ということのない、ただの見立て遊び。
だけどそれは定まった枠組みから、あらゆるイメージを解放するための訓練でもあった。
世界とは発見することを与えられた場所なのだということ。

ある一つの穿たれた点が「目」に見えた瞬間、全身がその地点からはじまり、広がってゆく。
未見のイメージと出会うこと。そこにあるのは語り尽くすことのできない豊穣さだと思う。

同じ時期に、沢山の素晴らしいものと出会った。

緻密な描写で、創造性に満ち溢れたインドの民族画、ゴンドアート。
ほとばしる魂のような海鼠釉をはじめとする、鈴木照雄の焼き物。
造形感覚を凄まじく揺さぶられた、谷由起子とレンテン族による刺繍布。
写真、エッセイ共に原初的な感覚を呼び起こさせる、「風の旅人」という雑誌。
世界中の洞窟壁画を旅した過程が記された、石川直樹の写真集「NEW DIMENSION」。
嘆息するほどの刺繍曼荼羅、沖潤子の作品集「PUNK」。
霊性の結晶ともいえる、版画家ヨゼフ・ドミヤンと押田成人神父による木版画集「白い鹿」。

それらの多くが手仕事のもの、無名の人々によるもの、
切実な暮しのなかで生まれたものたちだった。
すべてがあまりに美しかった。
何よりも光だ、と思った。

光のすべてが凝縮されて全身を駆け巡るとき、途轍もないものに包まれる。
自分の器には到底収まらないとめどなく溢れるそれに、ただ身を委ねるほかに仕方がなかった。
眠る前に目を閉じると、夥しいほどのイメージが瞼の裏に浮かび上がった。
なにか巨きなものと繋がっている感覚があった。
それはとても幸せなことだった。

 

絵を描き続けた。
やがて、生きものを象った絵が生まれはじめた。

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彼らは、自分が「作った」のではなくて、
何か大きな存在が流れ込んできて、
そのなかで「生まれた」のだと思った。

説明することもできなければ、
そこに物語を添えることも違うような気がした。

 

今年の4月、吉祥寺で個展を行った時には巨大な点描画を描いた。
偶然森で拾った鹿の骨を絵の具として使い、それで画面を埋め尽くした。

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描く、ということ。
それは風のように世界をうつろいながら、
至るところにイメージを芽吹かせてゆく、神さまみたいな存在だと思う。
それは時としておそろしくて、かなわなくて、
つかまれて食べられてしまうのではないか、とすら思うことがある。

だけど同時に開かれ、充たされ、赦される何かががあり、泣きたくなる何かがあり、
そこにはこのうえない無類の光があると思う。

光が失われない限り、いつまでも描き続けていきたい。