存在の祭りのなかへ

第35期(2017年10月-11月)

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幸福な気持ちで眠りにつく時、僕はいつもひとりだった。

 

数年前に自分が書き残した、その言葉は
けっして嘘ではなかった、と思う。

ひとり目を閉じて、ぼんやりとしながら
瞼の裏をかけめぐる光に自らを委ね、
心から満たされていた夜を、その幸福な記憶を、
僕は幾つもたぐりよせることができるのだから。

 

だけど本当はその時、ひとりでありながら
「ひとつ」だったのではないか、と思う。

ひそひそ声で語り合える誰かがそばにいなくても、
大好きな人がそばにいなくても、
ずっと遠く隔てられているはずの誰かと、何かと
自分は確かにつながっている、そう信じられる時がある。

 

そのような実感がどこまでも深まっていくようなとき、
僕は指折りの幸せを胸に抱く。

 

 

 

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先月、この連載の紹介文を書いてくださったみとさんと初めてお会いした。

 

インターネットをとおして、みとさんの写真を偶然見つけたのが一昨年の秋。
それ以来みとさんの写真と言葉に感じられるさびしさと、そこから伝う
やさしさとぬくもりのようなものに、ずっと心惹かれていた。

そして同じように僕の絵のことを、みとさんは気にかけてくださり、
フランスという遠く離れた場所から、二年間にわたってその変化を
ずっと見守ってくださっていた。

 

大きな駅の改札口でお会いしたみとさんは、土のような静けさを感じる人だった。

朝、行き交う人々の喧騒をぬけて、
少し歩いたところにあるカフェに入り、
二階の窓際のテーブルに、ふたりで横並びに座った。
写真のこと、絵のこと、生い立ちのこと、フランスのこと。
話をしているうちに、あっという間に時間は流れていった。

カフェを出たあと、近くのお店でおむすびを買って
公園に行き、一緒にお昼ごはんを食べた。
そういえばまだお会いしていない時、一度だけ夢に出てきたみとさんが
なぜかたくさんのおむすびをにぎっていたのを思い出して、
僕は思わず微笑んでしまった。

 

みとさんにお会いしたら、渡そうと思っていた絵があった。
それは自分が今までに描いたいきものの中で
いちばんお気に入りの、おおきな赤い鳥の絵だった。
会う前に、この子がみとさんの方へ行きたそうにしているのを
強く感じたのだった。

みとさんは、とても喜んで絵を受け取ってくださった。
絵を包んだ袋を、両手で大切そうに抱えていたその姿を、
僕は今でも忘れることができない。
生きていてよかった、心からそう思える日だった。

 

いつか必ず、フランスへ行こうと思う。
一足先に旅立った、赤い鳥を追いかけるようにして。

 

 

 

 

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地上に存在するすべての魂は、
ひとつの音楽をなすようにして
孤独のままにさざめきあい、
この星のもとにふるえている。

おおきな円環をなすための、
無数の点の集まりとして
その中心にある、
永遠をやさしくつつみこむように。

 

 

 

 

 

 

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最近になって少しずつ、意識的に人を撮るようになった。

きっかけは連載がはじまる数ヶ月前、あれは台風の夜だった。
アパートメントの住人のひとりである、トナカイさんが書いた
魂についての文章に、心からふるえた。

「僕が今まで目にしたあらゆるもののなかで
いちばん美しいと感じたのは、妻の魂だ。」
その一文にふれたとき、人の美しさに気がつくということが
これまでにないほど、切実なものとして感じられるようになった。

 

誰も知らない美しさが、誰にでもある。
それは僕が思い描くような何かでなければ、
他の誰かが思い描くような何かでもないものだ。
ふと気がつくと、ただそこにある。

僕はそれを撮りたい。

 

 

 

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時々、信じられないくらい素敵な日々について考える。

夜眠りにつく前に、ひとりで考える練習をする。
だけどそれは、たいがいうまくいかない。
そしてそのことに、ひとりで生きることの限界のようなものを感じる。

数年前までは、ひとりでも幸せになることが
できるはずだと、そう信じていた。
もちろん、それは決して不可能ではないのかもしれない。
だけど「生を全うする」ということばを前にした時、
本当にそれでいいのだろうか、と
首をかしげる自分がいる。

 

幼い頃、架空の物語をあんなに長い間続けることができたのは、
双子の兄という存在がいたからなのだと思う。
ひとりではきっと、そんな風にはできなかった。
かたわれの不完全な存在なのだと思う、人は誰しも、本来的に。

誰かと共に生きることについて、また考え始めている自分がいる。

 

 

 

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少し前に、僕には「好きなひと」ができた。

 

好きだと思えるひとは、この世界に何人も存在する。
だけどその人への「好き」だけは、やっぱりどこか特別みたいだ。
時々電話で声を聞くたびに、その思いはますます深まっていく。
恋の気持ちなのかどうかは、正直いってよくわからない。
この先どんな関係になっていくのかも、まったく予想がつかない。

だけどふと気がつけば、毎日のように
その人のことを、ぼんやりと考えている。
美しい夕暮れの空を眺める時、心地よい風が通り抜ける時、
心のどこかでその人の存在を、確かに感じている。

 

誰かを好きになるというのは、とても素敵なことだ。
その人への思いをとおして、世界を愛せるような気がするから。
そしてそのような時、同時に思い出す。
毎日のように思い浮かべる大切な誰かが、何かが、
自分にはこれまでにもたくさんいたのだ、ということを。

それらが生きろ、生きていいんだよ、と
呼びかけてくれているように感じる。
そしてその声が途絶えない限り、
僕は生きていける。そう思う。

 

 

 

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ほんとうをいえば、誰かと幸せになるのがずっと怖い。

お前は幸せになってはいけない存在なんだ。
いつからか誰かにそう言われているような気が、ずっとしていた。
救われるべき存在なのかどうか、そんなところからずっとぐらついていたし、
幸せな日々が続くうちに、自分が自分であることが
どこかで消えてしまうのではないかと思うと、たまらなくおそろしかった。

メメント・モリ、死を忘れるな。
勇気づけるように人は、そのような言葉を口にする。
だけど今の自分にとって必要なのは、むしろ
「生をおそれるな」というような、やわらかい言葉だったのかもしれない。

 

自分がやるべきことをやること。
それがもし、他でもない「幸せになること」なのだとしたら、
何も迷うことなく、そのように生きていけばよい。
愛したいと思える誰かを、愛せればいい。

 

 

 

 
ジャンケレヴィッチという哲学者は、
「死」という五百頁以上にわたる本のなかで、
これ以上一体何を語り得るだろうか、というほどまでに
すみずみまで、死について考えぬいた。

その本のいちばん最後の節、
「生きた、存在した、愛した」
において、彼がたどり着いたのは、
あったものはなかったとはできないということ、つまり、
「生きたという事実は決して滅びることはない」
というものだった。

文章を読み終えた時、
救われるために生きていない、そう思った。
「死ぬものとして生きる」ことが、自分にとって何よりも
救いそのものにほかならないのだ、と。
そんな風に考えたのは、この時が初めてのことだった。

 

それでも「永遠」は相変わらず、自分を容赦なく襲い続ける。
悲しい出来事は幾らでも起こるし、
世界の不条理や理不尽が消えることは、決してない。

だけどそれらなしの光を追いかけるつもりは、全くない。
「自分が見たいように世界を見るのではなく、ほんとうに起こっていることを見ないといけない」。
その言葉はいま、自分にとっての数少ないつとめのように感じている。
どんなかたちになるかはわからないけれど、
そのことを手放さずに生きてみたい、そう思う。

 

 

 

 

 

 

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世界を、誰かを
愛することができるだろうか。
何度生れ変わろうと、
ただ一度きりの人生であろうと、
生きた、存在した、愛した、と
死の間際になって、
そう感じることができるだろうか。

存在の祭りのなかで、
僕はその問いに応えてみようと思う。
ぼんやりとしながら、コーヒーを啜りながら、
真夜中のひそひそ話みたいだった、あの幾つもの
幸福な空気を忘れないように、と
自らに小さく誓いながら。

 

 

 

 

 


 

 

全9回の連載は、今回で最後となりました。

アパートメントという、この時代における
インターネットの良心のような場所に導いてくださった朝弘さんに、
管理人のみなさまに、心から感謝します。

そして、連載の紹介文を書いてくださったみとさんに。
時として読むだけでもきっと心苦しいような回もあったにもかかわらず、
いつもやさしく寄り添うような言葉をいただき、
僕は何度救われたかわかりません。

それからこの連載を、ひとつでもお読みくださったすべての方々に。
もしもはじめから全て読み通してくれた方がいたら、
僕はこころのなかで握手を交わしたいです。
本当に、ありがとうございました。

 

それではまた、どこかで。
引き続き、素敵な人生を。

 

kuma