あの雪の日、私はどこにいたんだっけ

第37期(2018年2月-3月)

久しぶりの東京の雪の日

その日は夕方から少し用事があって、夜家に帰ってくると、それから特にすることもなくて、だけれどなんだか気持ちが落ち着かなくって、眠れなかった。
そり滑りがしたいな、ちょうど良さそうな坂、近くにあるな、あーっ、この間段ボール捨てちゃったやー、と半分本気で後悔なんかしたりしていた。でも、ほんとはそり滑りする勇気、持っていなくて、それが悔しい。
でも、雪がある。早くしないと、雪が溶けちゃう。
そわそわして、寝ちゃいけないような気がして、時々、結露した窓から積もった雪を眺めたりして、朝方までぼんやりと起きていた。こういう時、こういう、そわそわしちゃって居所がない時、誰かが一緒にいてくれたら嬉しい。雪に光が跳ね返されて、不思議に明るい夜が好きだ。

自然と、頭の中は子どもの頃の雪の日のこととか、高校の時のあの大雪の日のこととか、前の東京の大雪の日のこととか、あの頃の自分のいた場所なんかを、行ったり来たりしていた。あの雪の日は、私は何をして、誰といて、何を感じていたんだっけ。雪がクッションになって、いつもより、リアルに思い出せるような気がする。
こんな風に、今日は、みんながそれぞれの雪の日を思い出してるんだろうな。人たちの思考が時空を飛び交っていることを想像する。なんでもない話でいいから、誰かの、あの雪の日のことを、聞いてみたいと思った。

4年前、東京で大雪が降ったあの頃、私はまだ大学生で、それで、神田川の近くの家を借りて、友達と暮らしていた。築35年の、冬はとんでもなく冷える家で、和室の炬燵に足を突っ込んでは、やたらと寝落ちしていたっけ。
女3人で暮らしていたけれどそれぞれ色が違っていて、そういえば、泣き方が3人それぞれだったのが、面白かった。
急に、うえーん!と元気に泣くひと。
溜め込んで溢れて、うぅぅ、と静かに泣くひと。
外に出てこっそり、1人で泣くひと。

泣くのにも個性がでるんだ。人のことを知って、自分のことも知った日々。
あの頃は他にも近くにたくさんの友達が住んでいて、支えられたり守られたりして、大家族で暮らしているみたいだった。
それぞれの人生の数年間を持ち寄って一緒に過ごしたこと。東京にも、故郷のように過ごした場所があることは、今でも私を安心させてくれる。
それでも、楽しくてもモヤモヤと煮え切らなくて、どこへ向かえばいいのか、分からなかった、あの頃の感覚に触れると、すこし心臓がドキドキとする。

今住んでいる、一人暮らしのアパートからは、可愛い緑色の屋根のちいさな教会が見える。
時が経って、私のいる環境は大きく変わった。新しく出会った人たちがわんさかいて、今、その人たちの存在は、とても大きい。あの頃は、いなかったのにな。変なの。
時が流れた。あの頃は、じいちゃんがいた。
時が、流れる。出会いだけなら、いいんだけどな。
今、のことが気に入らないわけでは決してないけれど、
それでも、時が経つことは、どうしたって、絶対的に、悲しい。何かが終わって、消えることへの恐怖は、消すことができない。
人はそのために新しい家族を作るのだろうか。悲しさに負けない、絶対的に嬉しい出会い。終わりに向かうものよりも、始まって成長していくものを見ること。
それは、人をものすごく強くするのかもしれない。
時が経つのを肯定することは、生きるのを肯定することと繋がっているような気がする。

いつかそんな強さを持ちたいけれど、今はちょっとまだ、無理そうだ。

かつていた場所、今いる場所、これから向かう場所。
私は、どこで何とさよならして、どこで何と出会うんだろうか。
そんなことに思いを巡らせた、雪の日。

今度雪が降った時には、できれば炬燵で、誰かと一緒に話がしたい。それで朝になったら段ボールでそりを作って、ちょうどいい坂を見つけて、あそぼう。

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