母の涙

第39期(2018年6月-7月)

あとわずかの高校生活、残るイベントもあとは卒業式だけになった頃、東京の大学に合格が決まった。
その晩、突然母が髪の毛を染めてほしいのだけどしてもらえない?と言った。髪の毛を加工することが嫌いな母は、これまで美容院に行ってもカット以外ほとんどすることがなかった。そんな母が髪の毛を染めるなんて一体どうしたのかと尋ねると、前々から白髪が目立つようになってきてな、と言った。母はずっと黒くて丈夫な髪の毛が自慢だった。
白髪なんてあるの、と言って髪の毛をかきわけると、黒髪に混じって確かに数本の白髪が混じり始めていた。

夕食を食べた後、昔家族で出かけた時によく使っていた色あせたレジャーシートを洗面所に敷いた。
中学生の時、一度「散切りカット」になったことがある。少し伸びてきた私の髪を母が切ると言って聞かず、「小さい頃はいつもしてたんだから大丈夫」と言いくるめられ、美容室代の節約にはなった…という出来事があった。
その時に首に巻いていた(私にとっては少し忌まわしの)ケープを今度は私が母の首に巻いた。
リビングから持ってきた椅子に母が座り、その後ろに私が立つと洗面所はいっぱいになった。

この家に引っ越してきたのは小学校6年生の時。その頃私がそこを使うのは手を洗うときと顔を洗う時くらいで、その場所を主に使っていたのは母だった。しかし私が中学生くらいになるとそこにいる時間が長くなり、立ち位置をめぐって次第に場所を取り合うようになった。私が高校生になる頃には妹も加わり、さらに混雑した。

今こうして椅子に座っている母を後ろから眺めていると、いつもよりも小さく見えた。
髪の毛に染め粉を塗る間、私は集中していたし母もほとんどしゃべらなかった。

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小さい頃の母は大きかった。私と妹の手を引いて街場でも公園でもどこでも行ったし、主催する講演会がある時は会場まで着いていって、ロビーで妹と二人で絵を描いて待っていた。ミニコミ誌を立ち上げて15年以上続けたり、ライターの仕事をしていた時はちょうど夏休みにかかる時だったので、著者がいる山奥まで行ったこともある。私と妹はその近所に住む同世代の女の子と仲良くなり、一夏一緒に遊んで過ごした。新潟から四国まで帰省する際には、「ついで」と言いながら大阪や兵庫に住む友人のところを挨拶がてら経由し、軽自動車で10日間くらい日本を周遊したりもした。父と離婚した後は新しい販売の仕事も始め、そのうちにこれまでやってきたことを集めたお店を始めることになった。イベントに呼ばれた時は朝から私たち姉妹も店のスタッフ達に混ざって手伝う代わりに、会場で売っているものは何でも買って食べていいよという「大盤振る舞い」で、特別な1日だった。小さな店だったけれど、少しずつお客さんも増えていった。何度かテレビやラジオの取材も来た。新潟を離れるまでの8年間、母はその店を続けた。

母は女手一つで私と妹を育て上げてくれた。守らなければいけない存在を抱えながら、自分を守ってもらえる存在はいなかった。それでも決してそれを言い訳にしなかった。怒る時も喜ぶ時もいつでも人一倍、寝る間も惜しんで働いていた。到底自分には真似できない。大きな存在だった。そんな母が今狭い洗面所で椅子に座り、娘である私に黙って髪の毛を染めてもらっているのは不思議な感じがする。母は体格だけで言えば小柄で痩せていて、大人の中でもずっと小さい方だとその頃はもう頭ではわかっていたけど、その事がいつもよりずっとリアルに感じられた。思えば、母はこれまで一本も髪の毛に白髪がないことが自慢だったのだ。
その時鏡で母の方を見なかったら、決して気がつかなかったかもしれない。
私は母としょっちゅう派手に喧嘩した。そんな時母は怒ったり時々悲しそうな顔をすることはあっても、決して感情的になって泣いたりしなかった。その母が静かに左目からも右目からも涙をこぼしていた。それは静かな涙だった。冷たい涙ではなく、温かい大粒の涙、生きているぬくもりをもった涙。
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あんたが生まれたときから、いつかこの家を出て行く日が来るんだと思っていたけれど、これが本当に最後なんやって思ってな。母はそう言った。夏休みになったら帰ってくるよ、夏休みなんてすぐだよ、と明るく言ってはみたものの、多分そういうことではないのだろうなということは言いながら自分でも分かっていた。

そのうち妹が二階からやってきたが、きつい染め粉の匂いに辟易して早々と退散していった。あの子髪の毛染めてあげるってあんなに意気込んでたのに、と母は少し恨みがましく言いながらも笑ったので、私もつられて少しだけ笑った。

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moku
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