芸術と無(3)

第43期

7 芸術、あるいは無。批評、あるいは死。

革命が「やっぱり無理だ」という時、人は何によって諦めるのだろう。20世紀の間、諦めの態度は批評によって表明されてきた。であるが故に批評的であることが一つの芸術たりえた。前回の連載に対する友人からの指摘「アリストテレスいわく『社会をつくることができない者か、完全に自足しているので社会を必要としない者は、野獣か神であって、都市国家の一員にはならない』」は、無と死の問題によって平面化される。野獣が死ぬ時、野獣が死んだことを確認する存在はいない。神が無である時、神は存在するかという問題は予め罷免される。とするならば、芸術と無、批評と死は社会から存在論を要請されないものであり、故に、そこには単に社会と異なる平面が別にあるというだけになる。

しかし、かつて、そういった運動は「ヒッピー」「新しい村」「独立国家」「オルタナティブ」といった言語によって批評された。そして、これらの言語は各々の運動が死んでいたからこそ生まれた。あらゆる運動が「現実に力があること」ないしは「民主主義」を必要とする時、革命とは、この矛盾を乗り越えた何かを指すが、21世紀を生きる人類からすれば20世紀の革命の大半は情報化と資本主義であり、全てはそれらによって分類、淘汰されるだけの存在へと再配置されてしまう。それでもなお運動が生存しようとすれば「現実に力をもつ」ためにコミューンとなり「民主主義を貫徹する」ためにムーブメントという商品化を行う。そうして終わってしまった革命、あるいは生きながらえた運動を尻目に、芸術はいち早く自己批評つまり自死を目指す。この自死だけが芸術と無を分けると言えるだろう。

ばか正直なレベルで話をすれば、芸術は「現実に力があること」と「民主主義」を否定するところからしかスタートしない。民主主義は独特な条件に基づいている。民主主義は私たちに互いに愛すること、公平であること、平和を尊重すること、そして理性的であることを要求する。それは人類にとって単一なはずの個別の愛や尊敬や計画性を普遍的なものへと押し上げてしまう。その結果、人類は民主主義に誘拐されてしまう。取り戻す方法は無い。そして民主主義の最も厄介なところは、それが必ずしも制度では無いことだ。それは態度であり、戦略であり、儀礼である。制度に組み込まれた民主制など殆ど建前にすぎない。それよりも重要なのは制度に組み込まれる以前に私たちに内在する民主的な振る舞いだ。それらは革命的であるが故に誕生から常に人を殺してきた。しかし既に述べたように民主主義の第一の条件は「互いを愛すること」である。

つまり「現実に力があること」と「民主主義」は矛盾する。であるが故に、それらを二つとも棄却した状態から制作を始めなければならない。そして驚くべきことに、制作が成功し、矛盾を乗り越えれば、それらは革命と呼ばれ、制作に失敗し、矛盾が露呈するような状況となって初めて、それらは芸術と呼ばれる。すなわち、社会をつくることができない「もの」か、完全に自足しているので社会を必要としない「もの」こそが、芸術と呼ばれるのであって、制作はそのための賭けでしかない。芸術と無が森羅万象の外にあるという時、それは現実には力がないことと一致する。すると問題は、革命や運動ではない制作や芸術に、いったいどんな意味があるのかという疑問に帰結する。

8 正直、没落、出口なし

そうして関係全体を見渡した時、私たちは不意に気づくだろう。そこには「出口がない」ということに。グローバリズムとはスモールワールド現象の加速しきった、誰もが関係の内側に入れられてしまう世界だ。だから「芸術と無は森羅万象の外」にある、としても芸術は容易に「森羅万象の外としての関係しかない内」へと没落してしまう。つまり生活芸術へと堕落する。しかし私たちは生活も人間もない「森羅万象の外」を目指すのを避けようとすると、つい「関係しかない内」をいかに楽しむかに没頭する。そのどちらでもない出口、それを目指すには制作について考える必要がある。

あらゆる人間は年をとる。これは船が沈没していること、飛行機が墜落していること、そして、その中で我々が暮らしているということに気付くことだ。地球は宇宙船でもなんでもない。その事実の発見でさえ人類の営みの内側にある。自然と人工という差異がなくなるより遥か以前から、そもそも人間は自然でしかなかった。私たちは落下するエレベーターのような惑星に暮らしている。しかし沈没船の中でも、墜落機の中でも、関係することはできる。そうして「関係しかない内」で、ただ散っていく私たちの運命から没落だけが目を背ける唯一の方法となっている。ある人間が没落するために生きようとする時、そこには他者の関わりが不可欠である。すなわち没落でさえ他者を必要とする。

しかし本来、人間には他者という抽象的イメージは手に入っても、誰という具体的な固有名は手に入らないはずだ。なぜなら固有の存在というのは、また異なる主観をもった人間であり、人間であるからには権利と自由を保障される。ゆえにここに自己と他者の所有の落差が発生する。そこから抜け出すには出会いが一度であるという前提を変える必要がある。あらゆる人間は出会い直すことができる。その意味では三度目の正直とは一度目の悲劇、二度目の喜劇を超えた三度目のリアリズムのことだ。人間は他者との関わりを三度くりかえす。一度目は大概、傷ついて終わる。二度目は過去を参照し、互いの落差を鑑賞する。そして三度目は傷つきも笑いもない単なる日常が続く。

芸術と無を考える上で没落は芸術と無のどちらかということが重要になる。没落している最中、我々は想定外の出来事に遭遇する。それを運命的とするか、賭けとするかは言葉の問題である。その上で想定外の出来事がリスクとして取引され、リスクさえも商品となる現代において、芸術は商品化を免れたものだけを慎重に選び取る作業でもある。すなわち没落という賭けの中で、賭けによって死んだもの、あるいは潰れた出来事だけが芸術であるということはできる。私たちが芸術と無を篩い分ける時、芸術である可能性があったにも関わらずリスク≒商品として流通してしまったものを無とし、リスク≒商品であることができなかったものを芸術と呼ぶことができる。すなわち芸術は常に現実の中に潰れた運命として存在している。

そうして出口がない場所から、私たちは潰れた運命としての没落を選択するようになる。一度目の悲劇、二度目の喜劇を超えて、三度目に日常と没落の選択を迫られ、運命としての没落を選ぶというのが近代の唯美主義である。これは近年の思想のリサイクルとしての自己啓発にも共通する。あくまで自意識として没落を選んだのだという態度表明。それが出口がないことから目を逸らさせる。革命や運動の喧しい時節が終わり、出口がないことが明らかになった今、潰れた運命としての没落は出口なしに正直な態度である。しかし、それは正直であるが故に芸術を無へと近づける。むしろ、より徹底的に不条理であるための態度、あるいは潰れた運命を条理とするための条件とは何か。それが出口なしから脱出する唯一の方策であると言えるだろう。

9 なれの、あてな

人間が生きる上でなれること、なることに、なれることがあるが、それらはあてなく制作したからといって起こる訳ではない。賭けに必要なのは選択肢だが、たとえば一つの選択が確実なものの時に賭けは成り立つか、ということを考える必要がある。手紙に宛名を書くことは、確実に手紙を宛先に届けるはずだが、ではもし例えば誤配の可能性に賭けたとして、きっと賭けは成立するだろう。なぜなら、そこには希望があるはずだからである。