芸術と無(5)

第43期

13 グッドバイ

人々が芸術に取り組む時「芸術なんて無い」ということを誰もが一度は思う。しかし、そこで逆説を使い続けることだけが私たちに芸術を続けさせる。それは森羅万象から疎外され、神にも野獣にもなれなかった者たちの、仕方のない逆説である。この美学が近代によって達成された時、それは「別れ」として起こった。さようならだけが人生だとすれば、しかし人間が生まれるのは死ぬためでなく、始めるためであると返す。その無限の往復運動が、森羅万象の外を芸術と無に分かつ。しかし、いいかげん、さようならとだけ言っている訳にはいかなくなった。そこからこの連載はスタートしている。そう「芸術という存在だけがある」と言い切ってみせるために。
たとえば芸術を無の側に配置する時、そこで避けられているのは物象化だろう。人間はものではない。あるいは人間は芸術ではない。一方で芸術はものである。芸術は人間ではない。これに対して「しかし人間はものである」と言う向きもある。ものであるからには失われたり壊れたりする。そして失われることにも壊れることにも意味はない。その場合、愛を取り除いた形で家族と戦争が商品化される。では、そういう状況が極まった時、私たちは、どういう言葉を人に投げかけられるであろう。人が人に言葉を投げかける時、その大半は何かしらの規則に従っている。その規則を使い分け、必要な人に必要なタイミングで必要な言葉を投げかければよい。
翻ってこれは連載という形式のエフェクトやリマインドの機能に似ている。私が何か文章を書く。エフェクトやリマインドがある。私はそれを「感じながら」新たに文章を書く。繰り返し。しかし、この方法では、根本的には私は自分の文章を書くことができない。つまり、私は何かに影響を受けなければ何も書くことができないことになる。これは人類が創作する時に、人類に影響を受けていると言っていることに等しい。そうして、人類は人類のために、何かを作ることになる。繰り返し。そして、そういう議論さえも、無限の相対化の中にあり、我々を決して運命から遠ざけてくれない。というわけで私たちは、別な運命を切り開くために何かを始める必要が出てくる。仕方のない冒険。
芸術と無が森羅万象の外にあるという時、警戒しなければならないのは冒険、好事家、時事無碍である。これらは列挙された様々な現象から、最もユニークなものを選んで、生存者バイアスを切り捨てた状態で肯定する。私たちは冒険することができる。私たちは好きなものを楽しむことができる。私たちはみんなつながっている。もちろんそうだ。そして、それに何か意味があるだろうか。
臭い演技が人を怒らせる時、私たちは、その無意味さに怒っている。演技が何かを意味すると思う人たちの誤解だ。私たちが何かを演じている時、そこで行われていることは意味ではない。むしろ意味が剥奪された演技をこそ、私たちは迫真というだろう。冒険、好事家、時事無碍は私たちに迫真よりも演技を求める。演ずることができなければサークル「森羅万象」には加入できない。加入できないにもかかわらず、加入できないことは何らかの瑕疵だと宣言される。嘆きは森羅万象の外にある。しかし一方で、嘆きさえも森羅万象の内側に入れようという運動は、存在すべてを嘆きに変えてしまう。これは芝居がかっている、と誰かが怒る時、その怒りは、その芝居を森羅万象の内側に組み込もうとするために発生する。
芸術という営みを、総じて「私は死ぬ」ということ以外に脅迫のなくなった世界で、どのような脅迫がありえるかである、ということはできる。愛があれば死のうとしている人を放っておくことはできないという期待と、しかし一方で簡単に死ぬことはできないという自嘲が、人を「私は死ぬ」という宣言に向かわせる。ところが、人は本当に死んでしまうことがある。前日まで全くそんな様子もなかった人が、ある日、突然、死んでしまう。芸術と無を分かつ分割線があるとするならば、その死を前にしてかなしいと思うのが無、さびしいと思うのが芸術だろう。

14 脅迫、仕方のなさ、消えることの不可能性

死ではない方法で生まれたことに対抗するには退行しかない。その場合「生まれてこなければよかった」がコンセプトとなる。その上で仕方がない、消えることができないという時、芸術を行うしかなくなる。この場合、脅迫されているのは芸術ではなく私たちである。一方で、その脅迫の側について考えることはできる。もし私たちが存在しなければ、私たちは喜んで脅迫するだろう。つまり「芸術しか存在しない」という風に。その場合、仕方のなさ、消えることの不可能性が、逆説として機能を開始する。情報化と資本主義に即して考える時、芸術の効果とは、そういったものである。芸術と無を分割しようというとき、効果は無の側に属する。すなわち情報化と資本主義という革命状態において、芸術はなくなる。
さらに全てが効果でしかなくなり、効果でないものを探り始めるとやがて、かつて効果があったはずのものを見つけ出すことが、効果的なことになる。そうして「効果とその起源」というセットの商品化が起こる。アイデンティティさえも商品でしかなくなった時、愛は終わり関係はゲームでしかなくなる。すると重要なのは貸し借りだけになる。その場合、逆説的に、愛がある場所では貸し倒し、借り倒しが頻発する。そうして私たちは全てを貸し、全てを借りるだけの動物となる。ここで動物から人間に戻るために、何かを貸すこと、何かを借りることの隙間に、賭けという新たな情報、あるいは資本を遊びとして挟むことが始まる。そうして最も資本主義的な人間が最も愛情深いという現象が生ずる。
しかし、このような運命を遊ぶ振る舞いが、理想主義的で、かなり一方的であることは確かだろう。例えば、この場合、語られる愛は贈与とほとんど同じ意味になっている。近年の自己啓発的なアプローチにおいて贈与的であることは一つの美徳とされるが、しかし一方で、贈与できるものがない時、私たちは時を共にするしかなくなる。そして時を共にするということは、とりもなおさず家族化するということでもある。あるいは一つの賭けとして、新しい家族というオルタナティブを設計するということはある。しかし、それは運動であって芸術ではない。運動と芸術は、芸術と無を考える上では、革命と制作によって四象限にひらかれている。
脅迫、仕方のなさ、消えることの不可能性は、象限の三つを埋めることができる。すなわち革命とは脅迫であり、仕方のなさとは運動である、消えることの不可能性とは制作だ。制作へ、という時、それは消えることができないという嘆きである。芸術は消えることができる。あるいは消えてしまいそうな何かが、脅迫でも、仕方のなさでもない形で維持された時、それを芸術と呼ぶ可能性が発見される。芸術と無において「芸術しか存在しない」という時、より正確にいうならば、芸術しか残されていないのだということはできる。芸術しか残されていないとしたら、どうするかという問いは、脅迫でも、仕方のなさでも、消えることの不可能性でもある、であるがゆえに、そうでなに何かに対する可能性を持ちうる。
一方で脅迫、仕方のなさ、消えることの不可能性を考える時、私たちはまだ時間から逃れられていない。ここにおいて再帰するのは時間という脱出しなければならない牢獄だ。一方で、私たちは、かなり早くから、その事実に気づいてもいる。時間銀行は時間の貯蓄を取り扱う。一方で時間は貯蓄できない資源である。この詐術さえも情報化と資本主義が覆い尽くそうとする時。時よ止まれ、と私たちが思うことは加速度的に増加しているにもかかわらず、時を止めるための技術があまりにも未開発だったことが明らかとなる。20世紀における情報化と資本主義が達成できなかったことは、時を止めるための技術の開発である。それは創作において何度も提出されてきた希望だ。結局のところ、私たちの没落とは、私たちが想像していた「時が止まるはずだった技術革新」が、時を止めるに至らなかったことが原因と言える。唯一の希望は時がとまること、そして二度と動き出さなくてもいいという人が、退行を唱える。死と退行は時を止める技術である。二度と動き出さないというリスクと引き換えに、私たちは時をとめる権利を有する。しかし、それは権利というには、あまりにも原始的だ。死あるいは退行しか出口のない脅迫、仕方のなさ、消えることの不可能性が私たちを芸術へと追い詰める。