芸術と無(6)

第43期

15 簡単で典型的で消費主義

さて、そろそろ私たちはアパートに帰ろう。私たちは近代という革命が、私たちのアパートから一体なにを喪失させたのか考えてきた。愛と友情、家族と戦争、芸術と無、それらが森羅万象から取り除かれた時、私たちの前には便利な世界が広がっている。そうなった時、私たちはいかにして愛情を示すだろう。かわいさ、や、ときめき、が世界を豊かにする時、そこで失われるものは何だろう。それは、ある固有の前提かもしれないし、ある特定の演技かもしれない。かわいさやときめきは、ある前提や演技を簡単にすることで得られるものだ。難しいものはかわいくない。複雑なものはときめかない。でも、私たちは簡単で典型的なものが大好きなことを否定できない。これは単にモノだけでなく関係にも及ぶ、わかりやすい関係、かわいい関係が、私たちを簡単に豊かにすることと引き換えに、私たちから難しいものや複雑なものを奪う。まるでそれがコストであったかのように。

このような環境において、あらゆる人間の価値は二分されてしまう。一つは消費対象としての人間、もう一つは承認対象としての人間だ。しかし本来、人間の価値の複雑さの多くは、消費と承認の区別がつかないことによって保証されてきた。私たちが誰かを好ましいと思う時、あるいは私たちが誰かを魅力的だと思う時、私たちは本当は、その好ましく魅力的な誰かの影を追う。その影が好ましく魅力的だと思えば、それに愛おしさを感じる。しかし現代において、人間は影を作る存在ではなくなった。あるいは影の質は変わってしまったのだ。影はある人やものの背後に存在するものではなく、その置かれた人やものの下に、地面にぴったりとくっついて発生するものになった。誰かが地面に立つ時、あるいは何かが地面に置かれる時、その背後には影があるが、その足下には跡がある。もちろん、そこには影もあるはずで、なぜなら人やものの直下には陽は差し込まないからだ。しかし、では、最も簡単に影を捉えるために、影のある足下だけを切り抜けば、どうなるだろう。それはすでに影ではなく誰かの足跡である。

本来、影は形が変幻自在で、特定することが難しく、複雑な動きをしている。しかし足跡は常に一定の形をしていて、特定しやすく、追跡することもできる。またその形に無意味な意味を与えることで、かわいく、ときめく何かとして売り出せる。私たちはいつの間にか、影よりも足跡を好きになってしまった。何か好ましい人やものを追う時、私たちは影ではなく足跡を追ってしまう。それはまるで、追跡可能になったインターネットで、互いの位置を常に確認しようとする恋人のように。最初に無関心こそ愛であると書いたことは、ここでは「追跡不可能性こそ愛である」と書くこともできる。たとえ日々を完全に追跡できなくとも、私たちは同じ空の下に暮らしている。あるいは、同じ屋根の下に暮らすことが人を簡単で典型的で消費主義な、過ごしやすい生活へと変える。そこでは人は人の影を愛することさえできない。なぜなら影は幻想としてしか存在せず、足跡は事実としてしか存在しないからである。

人間が簡単で典型的で消費主義な、過ごしやすい生活へと移行していく理由は、概ね意志の力を失ったからと言える。意志があれば、事実などと言う無根拠なものに左右されず生活することができる。事実は森羅万象のうちにあり、豊かで魅力的だが、芸術でも無でもない。しかし今や、意志を発揮しようとする人間は、森羅万象の外に追いやられる。ゆえに森羅万象の内側にある豊かさは、森羅万象の外側にある豊かさを、かわいくないと判断し、ときめくこともなくなり、消費や承認が分け与えられることもなくなる。近代という革命が成功し、私たちが近代的に訓練されてしまった悲劇の後、私たちが乗り越えなければならない一つの焦点がここにある。近代革命以前、自由に生きることは冒険だった。しかし、いまや、その自由は森羅万象の内にある、であるが故に、自由に生きることは芸術でも無でもない。

16 犬、挨拶、ほんとうのおはよう

毎日、日が昇ることを、一日の始まりだと考える人に対して、0時あるいは24時を一日の始まりだと説得するには、どのような方法があるだろう。私たちが日々を生きる時、挨拶は意志を失わせる効果があるが、一方で、挨拶を続けることは意志である。この挨拶自体の効能と、挨拶によって喪失されるものが、私たちの身体においては、常に同時に起こっていることを考えなければならない。私たちは日々、自然に挨拶している。一方で、かねてより人間は自然に挨拶をしてきた。であるが故に、私たちは人間として自然に挨拶している。しかし人間として自然に挨拶するという時、私たちは人間にとって最も重要な、意志の力を失っている。

これは簡単で典型的で消費主義な過ごしやすい生活を維持することが、私たちが意志の力を使わずに愛を伝えあっているかのように錯覚することができるという、豊かな森羅万象への没入と一致する。近代において便利になった生活が、私たちから愛を奪ったと考えるのは早計である。むしろ便利になったことによって愛を必要としなくなり、それによって認知を変更することが可能になった。その結果として、愛を手放すことを肯定する人が増えた、と考えるべきである。毎日のように愛を囁かれた人は、やがて、それが一日の始まりの挨拶だと思う。あるいは一日という認識が失われ、ただ愛でしかない日々を送ることになる。これはどちらも不幸である。その人間が意志を失ってしまうと言う意味で。

芸術と無が森羅万象の外にあるという時、私たちはこの不幸を、どちらも避けなければならない。ある挨拶が単に一日の始まりだと思うこと、あるいは挨拶の意味に没入し、ただ意味でしかない日々を送ること、これらはどちらも意志を失っている。一方で私たちの活動が単なる脅迫でしかないことは、私たち自身が最も知っている。挨拶で言えば、私たちが一日を始める時、私たちは「おはよう」する。毎日のように決まった時間に「おはよう」と言われた人は、その時間が一日の始まりなのではないかと錯覚する。あるいは「おはよう」という人は一日を始めているのだと錯覚する。その錯覚が何度も繰り返されると、私たちの認知は、自分の認知との差異を発見し、その差異を埋めるように認知を修正し、修正した認知をこそ「ほんとうのおはよう」だと思い込む。

しかしこれは、かの有名な犬が、餌を見せられた時、唾液を分泌してしまうことと何が違うだろう。犬と挨拶の違い、その違いもまた、考える必要がある。こうして芸術と無という運動は、エントロピーを減産する方向で機能する。この機能をこそ肯定し、一方で肯定した機能ののちに、それでもなお、消えることが不可能であると言ってみせることが、私たちに「芸術と無がある」と宣言する嚆矢になるだろう。

17 確定/申告

私たちが何かを決断する時、それが決断されたと判断することはほとんど不可能に近い。断定/選択では、それを男女という古典的かつ一般的な方法で記述した。しかしこれは例えば、世界という劇場において、私たちが何かを発表する際にも、同じことが言える。これは情報と報道の違いということもできる。かつて物事が報道される時、そこで問題になるのは情報だった。しかし情報化ののち、問題になるには、報道の内容である。ある情報を確定し、申告する時、その確定申告は正しかったのかだけが、常に問題とされる。しかし、いうまでもなく、一義的な正しさなどといったものは存在しない。故に、情報化という革命の後に、報道という概念はなくなり、あるいは全ては報道でしかなくなる。

そう、これも報道である。芸術と無が存在することを、私はここに報道している。