芸術と無(7)

第43期

18 人権、決闘

目が覚めると完全に鳥貴族にしか見えないチェーン系居酒屋にいて、タラコとマヨネーズのポテトフライ(399円)を注文したところだった。目の前にはまったく知らない奴が居て、僕はそいつに口に含んでいたハイボールを毒霧した。numero tokyoっていうクリエイションが詰まったインターナショナル・モード誌があるんですけど、僕にはnumeroって単語が50代成人男性の生きづらさを表象しているようで、どうにも我慢ならないんですよね。そいつがポテトフライをタラマヨにディップしながらそんなことをいうものだから、僕は何かそれを否定したくって、でも手に持っているジョッキとか使うと怪我したり血が出たりしてテンション下がるよなーと思った。そうして毒霧に至った僕は言った。ぬめぬめしたおじさんって表現自体がおじさんを少しキモいものにしてしまうんだよ。そういう訳で僕らは今、ドン・キホーテで買ったコカレロとかいう偽物のテキーラを片手に、そいつと終わらない戦いを繰り広げていた。これで音楽が鳴っていれば本物にもなれたのかもしれないが、今のところ公園には完全に鳥貴族にしか見えないチェーン系居酒屋から毒霧のために追い出された僕らを除いて誰もいなかった。そうして僕らは別れた。

19 エポケー、美しさについて

誰しもが自分の生活が、人生が、美しくあってほしいと願っている。目の前のまったく知らない奴が何か意味ある隣人であることを求めている。

20 真夏の雨の後

だってよくいうじゃ無いですか、ぬめぬめしたおじさんにはなりたくないって。風穴花子はバーの内側でタバコをくゆらせながら言った。僕はビートか刻まれている店内BGMにイライラしていた。なんでこんな「彼氏のDJでしか踊らない」をコンセプトにしたような店が存在するんだ。僕はiPhoneでむかしインターネットで拾ったブートレグを流しながら言った。とにかく、それは今まさにベッドインしようとしているカップルにとっては最悪の話題だよ。バー、あるいはホテルに向かう途中の路上で済ませるべき話題だ。花子は僕がそういう発言をしたことに、いたく失望したみたいだった。もっとボヘミアンな人かと思っていたけど勘違いだったみたい。僕らは完全に少子高齢化の煽りを受け、求人広告を出しても誰も集まらないような定食屋でカキフライを食べていた。おじいさんが20代の頃から牡蠣を揚げ続けて50年、この仕打ちは酷すぎる。なんで経営コンサルタントという職業が生まれたのか、僕にはわからないけど、少なくともこういう悲劇を回避することはできたかもしれない。それにも関わらず、花子は僕のことをボヘミアンじゃないと言うんだ。それが昔、バーで別れてから今こうして再会するまで音信普通になった理由だよ。

21 お別れの挨拶

これで連載は終わりです。このアパートメントというウェブサイトの芸術と無という連載は、芸術と無というプロジェクトの最初の一つです。これから先、ここに書いたことを元にして、様々なプロジェクトを展開したいと思っています。非常に真面目な話をすれば、僕は小説とプロジェクトという対立概念で制作を行っている作家です。小説というのは語りであり、騙りであり、カタリ、であります。話法と音を同時に兼ねることができる稀有なメディアです。プロジェクトというのは物語、あらすじ、プラトーの編集作業であります。すなわち小説とプロジェクトという対立概念を使うことは、嘘をついて、その嘘のテンションを高く維持し続けることによって、ある現象を形式に見せかけます。もしこの連載を読んで意味がわからないと思う部分があれば、それが私の力量の限界であるということです。それはこの連載が、ほとんど小説としてしか書かれていない、ともいえるでしょう。僕がプロジェクトを使うのは、小説であることの限界を突破したいと思うからです。しかし、プロジェクトは、もちろん反則です。だから僕の制作は、ほとんど反則的な方法によって行われます。芸術と無が森羅万象の外にある時、それが森羅万象に何か影響を与えうるとすれば、それはゲームにおける反則としてのみでしょう。私たち芸術家は常に、反則以外を禁じられていると言うこともできます。反則というのは、普通のジャンルであれば、常に確定記述です。しかし芸術と無に関しては不確定記述すべてが合法であり、同時に反則になります。正確さに欠けることを承知で言えば、芸術と無は反実在論におけるヴァリエーションの一つに過ぎないのです。でも、であるがゆえに私たちは芸術と無をやめることができません。私たちは、あらかじめ森羅万象の外にいて、魅力的な森羅万象を指をくわえて眺めながら、しかし同時に、それを徹底的に存在しないと断言します。そしてそれが本当に破壊された時、私たちは目的を見失うのです。すべての言葉はさようなら。だからこそ作家は、いつも、おはようを目指します。誰もいない荒野に向かって、なぜか叫びたくなる時、霧のかかった遠くの山々にむけて、やまびこを試してみる時、自分には絶対に無理だと思う我慢や、努力や、勉強を、馬鹿にしてみる時、しかしその結果、荒野に人が現れ、やまびこは返らず、しかし、まったく違う方法で何かを獲得してしまうということが、世界には存在します。だから作品は希望だと誤解され、芸術家に動機を尋ねる人が後を絶たないのです。芸術には何の意味もありません。何の意味もないという強い意味があります。これを失ってしまったものから順に、芸術は芸術ではなくなり、単なる商品や、サービスや、生存戦略へと没落するのです。しかし、没落を笑うものは没落に泣くでしょう。我々は没落を祝福しつつ、しかしその祝福が、あまりにも皮肉であることを、常に反省すれば良いと思います。最終回の再放送は無いのだから。

22 追伸、自己紹介

僕は東京で渋家という芸術作品をつくったり、SNSとオフラインでアーギュメンツという批評雑誌をつくったり、埼玉や沖縄で展覧会をつくったり、吉祥寺の劇場で非劇という演劇作品をつくったりしてきました。今は渋谷で渋都市株式会社という法人も運営しています。そして今は小説とプロジェクトの総合芸術作品として、映画を作りたいと考えています。もし良かったら僕と遊んでください。ツイッターやメールアドレス(satoketa@gmail.com)まで連絡をくれれば返信します。よろしくお願いたします。