芸術と無(2)

第43期

4 魅力のなさ、さみしさ、壊れかけていること

アパートに住んでいると隣人には関心を向けないが、一方たとえば存在しないように振る舞うことで存在しないことにできるという存在の毀損は私たちを無へと追いやる。日本語の問題として言うならば芸術と無は森羅万象に含まれない何かであるが、森羅万象に含まれないことは芸術と無を毀損する。グローバリズムと産業の終わり、または全ての資本主義が単なる運動、あるいは全ての運動が単なる資本主義だとわかった地点から私たちは生きていかなければならない。一方で人間が互いに傷つけ合うことをロマンだとするパラダイムは、おおよそ近代のものでもある。私たちが生きていて互いに傷つけ合う時、その傷をなまめかしい物語として扱うか、痛みを伴う熱源として取り扱うか、その差は殆ど偶然に委ねられている。その偶然こそ意識であり、自由であり、不確定な友情とも呼べる何かである。

友情に必要なものは三つ。魅力のなさ、さみしさ、壊れかけていること、である。私たちは生きていて魅力のない人間に出会うことがある。出会うというのはいきなり顔をあわせるといった意味ではない。心の底から特に興味がないような人間と、何らかの理由で多くの時間を共にすることがあるということである。だいたい、魅力ある人間とは友達になることはできない。友達になるということは、彼との関係から合理的判断がなくなり、動物的判断がなくなり、あるいは彼と私が互いに従属しないということである。そんなことを魅力ある人間と共有することが本当に可能なのだとしたら、それは彼が人でなしであるからだ。人でなしは、友達を売ることができるが、人は時に人でなくなる。

人間が森羅万象の外に出ていこうとする時、それらは芸術と無の領域に追いやられる。その決断が人であったか人でなかったかによって、芸術か無かが決まる。この「人であったか」というのがまさしく問題で、結局のところ、これは人間とは何かという問いに循環してしまう。しかし言うまでもなく、芸術も無も人間ではない。個人主義の徹底において森羅万象が人間の道具である時、その森羅万象に他者が入っているのかだけが芸術と無を分かつ問題となるだろう。森羅万象に他者が入っていない時、それは芸術であり、森羅万象に他者が入っている時、それは無である。森羅万象に他者を入れるか入れないかということは、他人を認識するか、しないかという問いに等しい。この場合、森羅万象に他者が入っていないとは、森羅万象の中で人間が動いているか、いないかということである。友情は壊れる時、初めて意識される。

魅力ない隣人が多いということは、彼は愛があるということだ。愛がなければわざわざ魅力で人を判断したりしない。全ての人に魅力があるというような言説は、私には愛がないと言っているに過ぎない。誰もが自分に魅力がないことを知っているし、誰にも魅力などないことを知っている。その期待の低さが重要なのであって、本当の魅力などというものは、いまだかつて誰も発見していない。僕は魅力的な人に出会ったことがない。魅力ない作家がいて、魅力ない作品をつくり、魅力ない展示が行われる。それが芸術という運動の果たしてきた成果であるし、それを誇るべきだ。これは芸術と無を分かつものは魅力ではないということであり、一方で芸術と無に魅力がないということは、森羅万象は魅力的だということである。僕は革命は、やっぱり、無理だと思う。なぜなら森羅万象は魅力的だから、みんなが魅力的なものを破壊するような運動は、決して起こらない。

この連載では世界には森羅万象いがいには芸術と無があり、それを担当していきたいと考えているが、そこで扱われているものを判断する基準として、さみしさ、がある。友情は「魅力のなさ」が十分に発揮されている時、退屈さと共に機能している。一方で「壊れかけている」時、時になまめかしく、時に痛みを伴って認識されている。この機能と認識の中間に位置するのが「さみしさ」である。さみしいことは何にも機能しない。一方で認識されるさみしさは常に痛みと物語の中間を浮遊する。この中間こそが私たちに、その関係を魅力ないものと壊れかけのもののどこに位置しているかを認識させる。そうしてさみしさは、ある特定の存在に起因して、その存在と共にあった時間や場所が、豊かな浪費だったのか、貧しい消費だったのかを私たちに迫る。

私たちは「さみしい時代」に生きている。つらみがある。
それは魅力のなさ、さみしさ、壊れかけていること、それらが私たちに与えてきた友情を喪失したアパートに、私たちが住むことでもある。

5 断定/選択

決定の本質が一体なにかについて考える時、私たちはコミュニケーションを無視できない。例えば妊娠した女性と、女性の妊娠を知る男性がいる。男女が子供を生むか生まないかを決定する時、十分に合意形成された判断を決定とすることはよくあるが、これを決定の本質とは言えない。ここで行われたのはコミュニケーションによる情報共有と、そこから導かれる判断のすり合わせであり、フィードバックによる判断への後押しである。女性が子供を産むと決定した時、その決定は様々なフィードバックを元に女性自身が行ったのであり、男性が介入することは不可能である。

しかし一方で、このように決定の本質を考えると、決定には断定/選択というマージナリティがあることがわかってくる。例えば女性が子供を産むと決定した時、それが彼女の決定であるということも、また不可能である。一人の人間が一人の人間を創造する決定を下せるとしたら、それは神の所業であるが、当然ながら女性一人が断定しても子供はできない。ゆえに、そのような所業が行われるかどうかは再度、選択の問題へと再帰してくることになる。男性は、子供を創るか否かを共に選択することができる。そして、この選択には当然、コミュニケーションが含まれている。

断定/選択は決定という神の所業と、合意形成という神話(ロマン)のための項目である。あらゆる局面で、この二項は、潜在性として横たわっている。女性が一人で「子供を創る」と決定できないように、男性が一人で「子供を創る選択」が不可能なように。ところで、ふつう神の所業および合意形成の神話は芸術と呼ばれる。すなわち芸術が断定/選択であることは間違いなく、全ての芸術家は日々「断定や選択の混ざったもの」を自分の創作から排除していく作業を行なっていると言える。その作業は完全なる決定か、完全なるコミュニケーションの、どちらかであると言える。

6 すなお、ばかしょうじき

普段あんまり気にしてはいないけれど、私は馬鹿正直だと思う。自分ができることをやってみて、うまくいくか、いかないか、いつも試していたりするし、その試したものというのは大概の場合、素直に受け止められ、私が愚かだということを相手に暴露してしまう。こういう馬鹿正直なところいうのは本来だったら隠すべきものかもしれないけれど、それに対する技術の低さに常に傷ついてきた人生だったので、最近の私は素直に自分の限界を受け入れることにしている。一方で、それによって引き起こされるのは、詩の劣化で、私は本当は詩などを大切にしていきたいのに、とんと詩みたいなものが成立しない場所へと自分を追いやっている気がする。私は文学が好きだし、大森靖子が好きだし、あけすけに自分を表現しているような、孤独なものが好きだ。でも、孤独なものが好きな自分から詩を引き算するしか、馬鹿正直な私には技術がなかったのだ。そういう残念な気持ちになることが多い。素直な気持ちを書くということは、馬鹿正直な自分にはできなかったのだなと、諦めることも多い。ただし、馬鹿正直な私は、まだ諦めたわけではない。いつか自分が素直な気持ちを書くことができるように、技術開発は怠らないつもりである。これが「つもり」だけでなく「ほんとう」になるために、素直と馬鹿正直について、改めて考えてみることにしよう。