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2F/当番ノート

裸になった、わたしは迷子。

当番ノート 第46期

最近、Netflixで『華麗なるメイクダウン!?』という番組を観ている。“Fashion Disaster(はちゃめちゃファッション)”だと言われる強烈なスタイルの人々をトーンダウンさせるというコンセプトで、ゴス、ロリータ、露出過度や塗りすぎの日焼けクリームといった様々なスタイルから変身させる。

ファッションにこだわるということは時に、自分を持っているかのように語られる。自己表現は大事だ、個性的なことは素敵だ、でも、やりすぎてしまうとtoo much。なんて難しいのだろう。

ただ、それ以上に強烈だったのが、ド派手に着飾っているときは下着のような服でも堂々と出歩き、それが自分のスタイルだと息巻いていた人たちが、メイクを落として服をシンプルなTシャツにした途端に、シャイで大人しい人に変わり、自分に自信がない、自分の姿すら見るのが嫌だと吐露し始めることだ。

ありのままの自分では自信が持てない。だから、たとえ悪目立ちだとしても他人の目を引きたい。注目されたい。歪な承認欲求とも言えるかもしれない。

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小学校に入った頃くらいからだっただろうか。わたしのなかで長らく抱えていたのが、「自分は平凡な人間だ」というコンプレックスだった。

そんなわたしが「変わった」人になるために選んだ手段、それがファッションだった。

小学校を卒業する頃から中学の初めまではロリータファッションに憧れ、代官山のベイビーザスターズシャインブライトや新宿のマルイワンに山梨からお年玉を握りしめて訪問した。愛読書はケラ。下妻物語が流行ったのもこの頃だったろうか。自分で祖母の白い自転車を真っピンクに塗って通学した。

と思うと、髪をベリーショートにして迷彩服だけを着る様になった。ちょうどあゆが迷彩を着ていて、迷彩柄の服は手に入りやすかった。中学校を卒業する頃にはヒップホップを聞く様になり、フブやベイビーシュープの服を買った。高校生まで続いたB系への傾倒、夏休みには髪をコーンローにし、校則違反はしていないのだからそのまま登校したいと、高校生らしい清潔感のある髪型の解釈をめぐって母親と言い争いになった。地元の商店街で黒人の定員さんから本物か偽物かもわからないカニエウェストの服を買ったのも覚えている。

高校を卒業する頃にはもはやカテゴリーできない謎のスタイルになり、段違いの前髪、左右違う靴下にド派手なピンクの水玉のワンピースで地元のローカル紙にスナップされていた。受験会場にも古着のピンクのアウターに、祖父が中国土産でもらった手足もついた本物の狐の毛皮、通称こんちゃんを巻いて行った。

大学に入学してもそれは続き、半分ピンク、半分紫、前髪は黄緑の髪色で大学に通った。素手でマニックパニックを塗って、しばらく手が紫色だったこともある。柄と柄を合わせたら無地、という謎の主張をしていた。
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こんなわたしは特定のカルチャーやスタイルが好きだったわけではない。ただただ、変わった人になりたかっただけだ。平凡な自分が怖かった。少数派の服を着れば、田舎では少数派。でもそのコミュニティのなかでは、本当にそのスタイルを愛している人に比べたら、わたしなんて「にわか」だ。

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26歳でダイエットをして、わたしはもう変わった服を着なくなった。美人百花を読み、スナイデルのワンピースを買った。本当はこういう服に憧れていたのもある。真っ向勝負で承認欲求を満たしに行こうとしたのかもしれない。
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見た目で変わった人になろうとすることはやめたけれど、見た目で承認欲求を満たそうとしたことには変わらない。どちらにせよ、わたしは服に依存していた。

服を脱いで裸になったとき、どんなわたしが残るのだろう。裸のわたしは、どんなわたしなのだろう。ひとつだけわかるのは、裸はとてもとても心許ない。自分で自分のことがわからないから、裸のわたしを見た人にわたしの価値を見出してほしいと思っていた。わたしは迷子だった。わたしは綺麗ですか?わたしには価値がありますか?わたしは特別ですか?

31歳になって、もう平凡な自分が怖いなどと思ってはいない。それは自分に自信が持てるようになったからではないだろう。平凡だと思っていたことも本当はとても成し遂げることが難しいと感じるようになったり、個性的な人間になりたいという漠然とした欲望よりも、色々考えるのはやめて楽な気持ちでいられることを優先しようと考えるようになったりと、理想や価値観を現実の延長線上に置くようになったからだと思う。

個性って何なのだろう。平凡って何なのだろう。思考停止はよくないけれど、幼少期からわたしにべったりと付きまとっていたこの2つの言葉はもう、完全に手放してしまいたいと思う。

いまだに自分のスタイルはよくわからない。今日着る服、明日着る服。中身のわたしは変わらない。でも、違う服のわたしは、それぞれに違う印象をあなたに与えるだろう。もう、自分のその日の気分に気ままに任せてればいいのかなと思っている。昨日はセーラームーンの服を着た。今日は真っ黒なワンピース。いまだに迷子なのだろうと思うけれど、出口は見つけなくていいと、なんとなく感じている。
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藤嶋 陽子

藤嶋 陽子

研究者。
文化社会学・ファッション研究。
株式会社ZOZOテクノロジーズ(ZOZO研究所)・所属。東京大学学際情報学府博士過程・在籍。
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1988年山梨生まれ。フランス文学を学んだ後、ロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズにてファッションデザインを学ぶ。帰国後はファッションにおける価値をつくるメカニズムに興味を持ち、研究としてファッションと向き合うように。現在は、ファッション領域での人工知能普及をめぐる議論や最先端テクノロジー研究開発にも携わるように。
26歳で35kgの大幅減量を経験、自己像や容姿との戦いは終わらない。猫2匹と同居中。

Reviewed by
藤坂鹿

恐怖から逃げることと内なる叫びを形にして昇華すること。それは表裏の祈りである。何にでもなれるということは何にもなれないことの裏返しで、「わたし」はいつもそのことに気がついている。

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