「努力」できない子。

第46期

さて、ここでエッセイを書くのも残り3回となった。何を書いていこうかと考えたとき、自分自身が普段からよく尋ねられることを書いておくのもいいかなと思った。それが、子どものときから成績がよかったのか?なんで東大受験しようと思ったのか?友人にも子どもの親になった人たちも増え、勉強法や教育法を聞かれることも多くなってきた。

しかしながら、最初に断っておきたい。おそらく、私の経験はなんの参考にもならないだろうと。さらに言うならば、世の中の勉強法も子育て術もケースバイケースでしかないとも思っている。それでも興味があったら、私の幼少期から思春期にかけての「勉強」というものの付き合いと、進路選択の思い出話を聞いてほしい。
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どんな子どもだったの?と聞かれても、正直自分ではよくわからない。ただ、母からよく言われていたのは、いつも神経質そうな顔をしている子だったということ。初対面の人からは豪快かつ大雑把で、奔放で、社交的な人間だと思われることもあるらしいのだが、これまでのエッセイを読んでくださった皆さんならお気づきかもしれないが、実際にはかなり神経質な人間だ。

小さい頃から大勢で遊ぶことは苦手だった。3月生まれだったこともあり、身体の発育が同級生よりも遅く、運動は得意ではなかった。物心ついたときからジクソーパズルが大好きで、小学校のあいだはほぼ毎回、プレゼントはジクソーパズル。しかもかわいらしいキャラクターではなく、より難易度の高い暗い画風の絵を選択していた。ジクソーパズルの面白さは、最初は上下左右の向きすらもわからない小さなピースから大きなひとつの絵を仕上げていくこと。全体図、ひとつひとつのエリアの特徴、ひとつひとつのピースの分析と位置の推定。出来あがったものにも興味がなく、出来上がりの達成感よりもそういった制作過程が好きだった。小学校高学年になると、毎晩深夜遅くに家にあった動作不安定な初期のマッキントッシュに入っていたテトリスで母と戦っていた。レゴブロックやテレビゲームでも村をつくる、学校をつくるといったシミュレーションも好きだった。

で、勉強はというと、ドリルをこつこつやるのが本当に苦手だった。幸い、あまり宿題のない学校だったので、家に帰ってから勉強などしていない。小学生のあいだは、まともなテスト勉強をした記憶がない。小学校のころのテストは、授業を聞いてればなんとかなった。幼稚園から母と同じ国立の学校に行っていたこともあって、周りは勉強熱心な人も多く、トップではないけれど真ん中より上くらいの成績になんとなくいるくらい。ただ、とにかく家族は評価に対してシビアだった。日常的には、勉強しろとは全く言われないのだけど、平均点をとるのは当たり前で、平均を越えてもそれだとクラスで何人あなたの上がいるのね、と言われていた。母は非常に優秀で、それに比べたら私はいたって普通の子だったのだろう。悔しさもあったけど真面目にやろうとは思えず、どうやったら効率よくクリアできるかばかり考え、問題集の出題傾向を眺めて出そうな問題だけを答えを確認するようにするずる賢いやつだった。
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中学生から塾に通った。理由は、放課後に遊びたかったから。国立大の附属に幼稚園、小学校、中学校と進んだため、バス通学で近所に友達はいない、放課後に遊ぶということがなかった。こっそりゲームセンターに行くには、家族の目が行き届かなくする方法として塾通いが必要だった。そこで初めて学校外で勉強する、成績でクラス分けされるという経験をした。成績は悪くないくせに真面目にやらない、派手な格好で遅刻ばかりしてくると目をつけられていた。通っていた国立の一貫校は中学までしかないため、高校受験が必ず必要だった。志望校は県で上から2番目と言われている、母親の出身校でもある近所の公立高校英語科、いわゆる進学クラス。それほど無茶な志望でもなく、都会の受験戦争とは比べたらゆるりとしたものであろうが、それなりには勉強した。入学時は5番。しかし入学後はというと、どんどんと成績は下がっていった。カラオケやゲームセンターも高校生になって自由に行けるようになった。家族も諦めたのか、そこまで成績に関して厳しく言わないようになり、赤点さえとらなければ、普段勉強していなくても口うるさくいわれない状態だった。

とにかく学校の先生がつくる定期テストが苦手だった。例えば英語だと、教科書の穴埋めなど暗記ばかりの問題になんの意味があるのかもわからない。やる気もまったく起きない。高校の担任の先生に、お前は基礎のない家と言われたのが印象的だった。暗記とか基本問題とか、そういうのがコツコツ積み重ねることができない。努力、という言葉が大嫌いだった。進学クラスだったので毎年夏に勉強合宿があるのだけど、わたしの集中力は3時間が限界。8時間とか10時間とか、座っているだけでもつらかった。

だから、自分には勉強は向いていないと思っていた。暗記や基礎問題をこなす、一問一答みたいな世界が勉強だと思っていた。高校2年生くらいになるとだいぶ落ちこぼれたので、大学には行かず、いつも読んでいたファッション誌に登場する服飾の専門学校に行きたかった。それを母に伝えると、取っ組み合いのケンカになった。模試の合否判定でなんとなく京都に住んでみたいなと思い、京都大学を名門大学とも知らずに記入してしまってから、母は期待していたのだと思う。それが、大学なんて行きたくないと。大学に行くのが当たり前だと思われないくらい、勉強できなければよかったなんて思っていた。このケンカの顛末はというと、母が泣きながら大学だけは行ってほしい、そのかわり大学を出てまだファッションデザインをやりたいのだったら応援すると言われ、大学進学以外の進路希望者がクラスで他にいないなか勇気もなく、それを受け入れることにした。
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高校2年生の終わりに友達に付き合って東京大学のキャンパスを見に行った。そして、その大きさと雰囲気に圧倒された。どうせ行くなら一番良い大学(として自分が知っているところ)を目指してみようかなと生意気な考えを、まだ曖昧ながらも持ち始めていた。そして駿台予備校がやっている箱根セミナーという、東大京大医学部上位大学志望者向けの合宿に行った。ここは勉強だけではなく、モチベーションを上げるために現役大学生がチューターとなって座談会や相談会などのコンテンツを行うという変わった場所だった。

授業には全くついていけなかったのだけど、そこで京都大学で着物の研究をしている人と出会い、アエラムックの『NEW学問の見方シリーズ ファッション学のみかた』という本を教えてもらった。端的に言って、驚いた。ファッションが大学で「勉強」できるのか、と。誰も教えてくれなかった。調べかたもわからなかった。東京大学と地元の大学、あとはよくわからず書いてしまった京都大学。わたしの名前を知っている大学はそれくらいで、どんな学部があって、大学とは何をする場所で高校までの勉強とは何が違って、そんなことが一切わかっていなかった。合宿から戻った高校3年生の秋、当時理系だったわたしは、ファッションを学ぶために文転した。志望は東京大学。勉強する科目も相当増える。もちろん落ちた。というか、センターの点数で足切りになり、二次試験に進むことすらできなかった。敗因は、理系だったのに化学が全くできなかった。さすが、基礎がない家。

浪人生のとき、死ぬほど勉強した、のではなかった。お前は遊ぶから東京の予備校に行ったらだめだと言われたが、地元の予備校でも原付バイクを入手したわたしは、ピアスが口にも腕にも開いたピンクの髪の彼と付き合い、イラストレーターのお姉さんに憧れて店番をし、友達と遊ぶ毎日だった。本当に勝手なやつで、暗記や基礎を叩きこむような大嫌いな授業には出なかった。ただ、東京からくる先生たちの授業は最低限必要な暗記と論理的な訓練を分けてくれて、その先生たちの授業が本当に楽しかった。基礎のない家も、おかげで基礎を少しは作ることができた。そうこうしているうちに秋頃にはピアスの彼と揉め、わたしの人生、ここで終わってなるものか!とおばかな奮起し、苦手な基礎づくりも昨年のセンターの失敗を踏まえてパターン習得のために過去問題をやりこんだ。特に東大の入試問題は論述が多いのでほぼわからないが解くのが楽しく、ひたすら先生を追いかけて添削させた。もう暗記は間に合わないので、最低限しか保有していない暗記知識をどう運用するかを鍛えることばかりに集中していた。結果、センター試験は模試も含めて過去1番の成績をとれたが、本試験はというと、センター利用で合格したところ以外、併願した私立大学にはすべて落ち、東京大学しか受からなかった。
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自分のこの結果から、何かを学んだわけではない。どう勉強すればいいの?という質問には、上記の通り、真面目に勉強できない、なんとか合格したとはいえ、崖っぷちでやりすごしたわたしには、何も言う権利はない。もちろん、基礎をコツコツ積み上げるかたちももちろん大切だったと今になると思う。ただ、それが圧倒的に苦手で、落ちこぼれてしまう子がいることもわかってほしい。ひたすら覚えること、長い時間机に座ることがすべてではない。別のやり方もあっていい。わたしは幸いにも家族がそれほど勉強法に口出すことはなく、自分にやり方を任せてくれたから、グレずにいられたと思う。

実際に大学に入ってからは、もちろん基礎的な理論や知識は一定おさえるものの、そのうえでひたすら思考し、無限の広がりを感じさせてくれる勉強、というか学問は本当に楽しくて、それによって大学との付き合いはもう12年、ひよっこ駆け出し研究者になっている。子どもだって生産性が感じられない作業を、納得いかないままやらされるのはつらい。忍耐なんて、そうやって育てるものではないのではないかなと思う。教育理念を語る資格などないが、勉強するということが自分で思考し、選択するものとして受け止められるようであってほしいというのが、自分は勉強に向いていないと思い、努力という言葉にいまだ苦手意識のあるわたしの願いだ。好きなものなら、自分で必要と思える作業なら、自然と積み重ねることができる。ただ、わたしにとって勉強とは、納得いかないことを耐え忍んでやり続ける「努力」でしかないように思えてしまっていた。

わたしは何をこんなに恨めしく思っているのだろう。「勉強」させられたことにはむしろ感謝している部分もあるのだけれど、この恨みったらしさはなんなのだろう。それは多分、私はもっと自分の選択を背負いたかったのかもしれない。答えを当てるのではなく、選択肢から自分で考えること、試行錯誤することをやりたかったのだと思う。もしかしたら、それは当時のわたしでは背負いきれないものだからこそできなかったことなのかもしれないが、それでもやっぱり、自分で自分を背負いたかった。火事場の馬鹿力に賭けることも、基礎を積み重ねることも、そういった努力やリスクを自分ごとに引き寄せることが、圧倒的に足りていなかった。

レールから外れること、失敗することに厳しい社会、一方で「努力」がすばらしいもののように語られる学校生活。なんだか息苦しい。他人ごと、他人のふりをして、正解を選びつづければいいだけなのだろうか。もっと多様な解釈、それぞれの多様な選択に寛容でありたい。これはきっと受験への恨み節なんだろう、うまくいったんだからいいじゃないかと思われるかもしれないが、やっぱり、どうしても「努力」だけは好きになれない。