20191011

第47期

外は、大雨だ。おまけに雷も鳴っている。

大きく息を吸い込むとき、気管支が詰まったように、ひゅー、という音が聞こえることがある。
ごくわずかに喘息を持っているのだけど、それとは別に、息苦しさを感じるときがある。

何年も前のこと、僕はこの世界が灰色に見えていた。
ようやく色が着き始めて、彩色が薄ぼんやりと見えるようになってきた。

息も出来ないほど苦しかった灰色の世界は、何回息を吸っても上手く酸素を取り込めなかった。
過呼吸のようになっていった先にあった希死念慮と、僕は常に戦っていた。
あの息苦しさは、生きづらさを砂袋にしていたからではないか、と今は思う。

窓が、揺れる。そして雨が地面に打ち付ける。

息苦しさが、全く消えたわけではない。今でも上手に付き合っていけないときがある。
口を開けて手を伸ばして、もう世界は生きづらさで回っているんじゃないかと、そんな考えが出てくるときだってある。

周りの人が、器用に楽に息を吸えているのを見て、何回羨んだことだろう。
自分にはない浮力が、周りの人には十分に存在しているのを見て、抱えている生きづらさを持て余していた。

生きているとは、何だろう。

呼吸をする?
生活をする?
食事をする?

そのどれもが正解で、不正解なのかもしれない。

朝が来たとき、憂鬱になる日は、それはきっと良くない兆候だ。
夜が来たとき、明日を恨む日は、それはきっと良くない兆候だ。

毎日が笑って、幸せに生きられたらどれだけ楽しいだろう。
ふとそんな考えは、ふわりと浮かんでは消えていく泡のように、軽く弾けてしまう。
ぼんやりと砂の袋を持ちながら沈んでいく姿は、なんて滑稽なものか。
でも、生きづらさを、やすやすと手放すことは出来ない。
泡のように浮かんでは消えていくわけではない。

それでも、それでも生きてしまう世界は、なんて中毒性のある世界なんだろう。
だって、僕は20歳になるまでに自殺するはずだったのに、何故かもう大人になって3年が過ぎようとしているのだから。

生きづらさから撤退しそうになる。ゴボゴボと溺れて死んでしまいそうになるときもある。
だけど、たまに生きづらさという砂袋を一緒に持ってくれる人がいて、だからこそ生きてきたのかもしれない。

1人で砂袋を浮き袋にするのは難しい。それは重いし、骨が折れるし、何より苦しい。
だけど、たまに支えてくれる誰かがいると、少しずつそれは浮き袋になってくれる気がして。

そうして僕は、生きている。