20191018

第47期

生きづらさは、時に自分から、他人から、与えられるものだったりする。

人はいつだって、何かしらでマイノリティを抱えている。
多数派が正しいと見える世界で、同調圧力ほど少数派を苦しめるものはないだろう。

絶対的な正解も、絶対的な常識も、そんなものはどこにもないのに、どうして人は、白黒はっきりとしたがるんだろう。
多数派が選ぶものは、少数派にとっては理解し難いものなのかもしれない。
少数派が選ぶものは、多数派にとっては理解し難いものなのかもしれない。
そこにあるのは、ただ価値観や考え方の中にあるほんの少しの違いなのに、人はそれを「変わり者」というレッテルを貼ろうとする。

「常識とは、生まれた環境で身についた偏見である」と偉い人が言った、らしい。

僕はこれを正しいと思った。だけど、間違っていると思う人もいる。
何が良くて何が悪くて、何が好きで何が嫌いで、もうそんなのどうでもいいくらい世界は混沌としているのに、どうして人は。

生きづらさは、後ろ指をさされることで発生する。
他の人と違うこと、他の人が出来るのに自分が出来ないこと、誰かと比べて発生する。
それは自分の抱えている袋に、他人から砂を注がれることもあれば、自分で砂を注いでいることだってある。
俯瞰的な目で見れば、馬鹿らしいと思えるかもしれないけど、当の本人はものすごく真剣で、それが正しいと思ってやまない。

羨ましい、妬ましい。
生きづらさを抱えて、他人と比べて、多数派だと思い込んで、ネットの世界ではそんな人を星の数ほど見かける。
批判という形に姿を変え、目の見えない他者に匿名性を保ってぶつけるその様は、他人の袋に砂を注ぎ、それと同時に自分の袋にも砂を注ぐのだ。

どうして人は、素直になれないんだろう。
苦しいと、寂しいと、手を上げられない、沼のように染まった世界。
助けてと、辛いのだと、そう叫べばいいはずなのに、その声も多数派によって消されてしまうのか。

少数派の声は消えていく。多数派によって消えていく。
多数派を形成する誰かだって、少数派のはずなのに。
そうして、誰かの生きづらさは、人によって作られていく。
そうして、人の生きづらさは、誰かによって作られていく。

ただ、世界には、光というものがあって、ごくたまに沼の世界に差し込むことがある。

ふと見上げると、全てを包み込む光があって、その方向に手を伸ばせば、助けてくれる人もいる。
誰かしんどい思いをしてやいないかって、ダイバーのようにくるりと体を動かしてくれる人がいる。
そういう大人に、僕はなりたいのだと思う。

もちろん自分にも袋はあるけれど、自分の力で空気を入れて、浮き袋にすることが少しずつ出来るようになってきた。
だから今度は、誰かの袋を浮き袋にしたいのだ。
多数派にも少数派にもならない。砂を持たない。
ただ、空気を注ぐような、そんな人間に、僕はなりたいのだ。