5.私たちと、死 誠と私へ② 

第47期

1994年の9月、妹が生まれた。
私は小学校3年生で、夏休みが終わってすぐの土曜日。

私と2つ下の妹は、いつも別に暮らしているおばあちゃんに起こされた。
まだ生まれてないよと言われて朝ごはんをのんびり3人で食べてから、
おばあちゃんの車で隣の町の病院まで行った。
病院に着くと、まだ名前がない、初めて見る赤ちゃんがいた。
妹が生まれてくるまでの日、赤ちゃんがお母さんのお腹の中を蹴るのをさわらせてもらったり、耳を当てたりしていたのに、目の前の赤ちゃんは思い描いていたより小さかった。
お母さんに、首をちゃんと支えるように言われながら、ゆっくりそぉっとだっこする。
びっくりするほど軽かった。
めっちゃくちゃに嬉しい気持ちと一緒に、少し不思議な気持ちを感じたのを覚えている。
4人家族が、5人家族になった。
2人姉妹から3人姉妹になった。
へんな感じだった。
人間が増えること。家族が増えること。

2014年の同じ日の夕方、誠は肺炎になって、またいつもの大阪の病院に入院をしていたとき。
その日は、栄養を摂るための点滴ルート確保の手術ができるかどうかの話し合いだった。
先生やいつもの看護師さん、おばちゃん、介護者やヘルパーさんもいて、病室がぎゅうぎゅうだった。
誠はベッドを少し起こして話を聴く。
手術ができるかどうかを病院内のいろんな科の医師が集まって、話し合った結果を伝えられた。

「院内で医師が集まって話し合った結果、」と話題が変わった。
予期せず、余命について伝えられた。
年が近くて朗らかな先生が、張り詰めた表情で、でも私たちを見つめながら、言葉を選んでゆっくり話した。
幅のある曖昧な期間。
私は表情を変えずに話を聴くようにしながら、猛烈に動揺した。

人はいつ死がくるかわからない。
余命宣告も不確か。
それでも、例えば「私のほうが先に死ぬかもしれない」という、本当のようなことは意味がない気持ちがした。

私たちには、今日、明日、来週、来月、来年、、たくさん「先」の予定が溢れている。
楽しみなこともあれば、億劫なこともある。
あの時もたくさん予定があった。
来週の介護者やヘルパーさんの予定、来月に取材に来てくれるという予定、来年の個展の予定とか。
当然生きているという前提で予定を立てていくとき、いつも死がよぎった。

私たちにとってはあまりに日常的だったけれど、呼吸器のホースと酸素と点滴の管を付けて過ごす姿は、とても「重く」見えたと思う。
延命措置の1つとして呼吸器を付けるかどうかの希望を聞かれるけれど、
「もう10年ずっとつけてるしな」と笑って話したりした。
そんな冗談を言えるくらいだけど、

死なんて全然受け入れらなかった。
覚悟とかは1mmもなかったし、できなかった。
してもしなくても、いつか来る日に対して、何を諦めるんだろう。

今日のこと、生きるための生活をすることで1日が過ぎていく。
ほとんど生活の上での面倒ごとにも思ってしまうような、
風呂に入ること、着替えること、トイレに行くこと、寝ること、生きるための動き1つ1つが全部だった。

私たちは余命宣告があった後も、何か特別なことをしたりすることはなかった。
1日1日を噛みしめて、丁寧に大切に生きていたわけでもないなと思う。
お菓子を取り合って本気で余計な喧嘩をしたり、だらだら過ごしたり、そこまで観たくもない何とかのゼロという映画を観たりした。
ちょうどテレビからは、他人事のように終活という言葉が流れ始めた。

11月11日までの2か月半くらいの時間を、また時々入院したり、あとはお家で過ごしていた。

誠が亡くなった日、
先生が言っていたとおりに、苦しそうではない静かな時間があったし、それでも私は
子どもみたいに「何でもするからそれだけはやめてください」と祈っていた。
やっぱり、受け入れることができなかった。
誠が居なくなること。

私は、いつも、これからも、誠と一緒に生きていた時間を恋しいと思うとおもう。
忘れてしまっているような毎日の記憶。
こんなに大切に感じられる人と時間があるということや
ときに平和で、ときに大変な時間を一緒に過ごすことが出来た事は
とても幸せなことだと思っている。

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それでもやっぱり、誠はどこに行ったんだろうと思った。
私は、とても旅がしたくなってうろうろすることになった。
この気持ちと悲しさがあったから出会ったたくさんの人や出来事。

旅記につづく。
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