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2F/当番ノート

1.恐怖と祈り 小さな私へ

当番ノート 第47期

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毎日、夜中に目が覚めて、布団の中でなんとなくスマホをいじる。
今朝方はfbのタイムラインのトップに「5年前の今日」がでてきた。大阪・梅田近くにある北野病院の11階の窓から夕焼けに浮かぶ飛行機の光を私が撮った写真。誠がいつも入院していた馴染みの個室から、暇つぶしに撮った写真。

「5年前の今日」
私は今日、京都市の隅にあるシェアハウスのリビングでこれを書いている。
築年数不明、ハウスルールは「風呂上りは床びしゃびしゃにしない」ぐらいしかない、ゆっくり時間が流れるお家。
今日は日曜なのに住人達がぞろぞろ早起きしてきたから、珍しくて笑いあっている。網戸も開けっぱなした陽の射すリビングで、朝昼兼用のご飯を食べる人、たばこを吸ってる人、紙で手遊びしてる人、雑誌を読んでる人。
5年前の私は、パートナーの余命宣告を受けたばかりだった。
死別や葛藤、引っ越し、いろんな出会いや感情の旅の先に、今こうやってここに暮らしていることは「5年前の今日」からは想像も及ばないことだとおもうと、わたしが生きることの不思議さと世界のでっかさを感じる。

ここに来て2か月経ち、私は勇気を振り絞ってなけなしの貯金を下ろした。この秋から冬にかけてを、自分のために休憩する時間にすることに決めた。仕事だけでなく、ひたすら動き回って「何か」を埋めるのはやめよう、、、でも「何か」ってなんだろう?
そのタイミングで、「アパートメント、書いてみませんか」と親友のRさんからLINEをいただいた。

最初は、2か月の連載の中で亡くなったパートナーとの暮らしや死別についてを書こうと思っていた。が、「何か」を振り返っていくうちに1稿目は、私が子供のころを書く流れになった。宇宙から見ると小さな、私にとってはたった一つの子供時代。祈りまくった子供時代。
物心ついた私は、いつも「世界が終わってしまう」という恐怖に覆われていた。終末を連想させる言葉や映像、すべてのものに怯えていた。

消防署のサイレン、ブラウン管の向こうの戦争、戦争についての授業、震災、ノストラダムスの大予言、テロ。そしてお家の中も冷戦中か、ときどき戦争中になった。
爪噛みやチック(トゥレット症候群)の症状があり、バレエや合唱が大好きで、目立ちたがりの私と一緒に目立ってしまう。勝手に目がぱちぱちして、べーっと舌が出て、顔がゆがんでしまう。お母さんに、やめなさいと怒られる。お父さんに、目がシバシバしてると笑われる。それに覆いかぶさる、世界がおわったらどうしようという恐怖。恐怖を打ち消すために数を数えたり、手を動かしたり、何度も字を書きなおしたりする強迫的な行動が追いかけてくる。とても忙しい。
そんななかで子どもの私の小さな世界を平和に守るために編み出せた事が、唯一、祈ることだった。暇さえあれば「世界が平和でありますように。戦争が起きませんように」とおまじないのように口の中で、時に人目を忍んで声に出して唱えていた。

小学校では至って優等生に過ごした。担任の先生には褒められがちで、母の父や姑に対する嘆きは何時間でも聴き、大人の話が分かる子にならなきゃと思った。
小学校の卒業式の後、今でもよくわからない「優等生」みたいなトロフィーを市長さんからもらった。
すごくいやで、もらって帰ってすぐ自分の部屋の壁に投げつけた。
要らなかった、不本意だった、私なんてこんなもの、もらう資格もない・・・下心ばかりで大人の顔色を窺っていただけの、見せかけの優等生なのに。両親を困らせるチックも治らない、戦争も終わらない。

・・社会人になって、もう11年。カウンセリングに通ったり、本を読み漁ったり、年齢も重ねて、当時の両親に近い年齢になって、離れて暮らす家族を「そりゃ大変だったわな、」と客観的に見れる気分にもなり、実家にも時々甘えたり連絡しなかったり、自由に距離を保っている。

だけど、あの時のまま私の心が拗ねている—

親友と日々の生き方を聴きあったり、周りの人に助けてもらったり、おおらかな人たちと出会うなかで、私は拗ねていることに気づいた。
優しいなんて。聴いてくれるなんて。私のそのままの気持ちをただ聴いてくれるなんて。
私が欲しかったのはトロフィーではなくて、もっとありきたりなものだった。ありきたりで、見過ごされて、甘いと見下されているもの。

「やさしさや、ありのままを受け入れてもらうこと」。

変な顔をする、いい子ぶってしまう子どもの私は、本当は笑われたり、怒られたりすることが自分ではどうしようもなくって、自分のことが恥ずかしくって、めーーっちゃ怖かったんだ。やさしさに触れたとき、胸から子どもだった私の声が叫びを上げた。
お母さんや周りの大人に「そのままでいいよ」と言って欲しかった。自分はみっともない子じゃないですかって聞きたかった。それが言えなくって、聞きたくって拗ねていた。
「そのままでいいよ」なんて言葉は今の世界に蔓延している。でも、ほんとうに、私はその言葉が欲しかった。
そして、世界の破滅が怖いという馬鹿げた恐怖を、誰かに気づいて欲しかった。
そのままでいい。

子どもの頃の私は、誰に教わったでもなく、「世界が平和でありますように」と祈り続けていた。
子どもの頃に母は私に、「思いやりとやさしさは大事」と言った。
そして今、いろんな人生を湛えて人知れず生き延びてきた親友たちが私の言葉や生き方を、あまりにまっすぐ受け止めてくれている。

口先ではない、魂の底から出た優しい願いは連鎖する。きれいごとでも、私はそれを信じてみたいとおもった。
私が、かたくなに握りしめてきたたくさんの気持ちを、1つ1つ掬って愛でて褒めて、自由にしてあげたい。
家族やパートナーや友情や世界とのつながりをあきらめている、本当はつながりたい、寂しくて泣きたい私たちのために。

たいせつ

そんな気持ちのながれで、1稿目は順序良く、子ども時代を書くことになったのでした。
あと7回の連載を通して、小さな私と誰かの、「そのまま愛してほしかった」を優しく包めますように。
怒り、抵抗し、アタマで生き抜いてきた私から、感じることのできる私へ、怯えなくていいわたしへ、強がらなくていいわたしへ。
子どものころの私へ。誰かを生きてきた私へ。私を生かしてきた全ての命、出来事、時間へ。これからの私へ。母へ。誠へ。
この自由なアパートメントの中で、忘れ去ったり、無かったことにしてきた沢山の私を見つけなおしていきたい。
そうやってただ想いを向けることが、身一つの、今の私にできること。

書いているうちに、日曜の朝は、月曜の朝になってしまいました。少し肌寒く、コオロギと小鳥が鳴いている。

井川 朋子

井川 朋子

1986年生まれ。ビビでゲラです。3姉妹の長女です。
愛媛県生まれ、香川県育ち。大学から大阪へ。2006年から暮らしたパートナーとの死別を機に、自然を巡ったり、写真を撮ったり、清流沿いに移住を経て、今は京都市の隅っこに暮らしています。
社会福祉士として大阪の小さなNPOなどで障害者福祉分野のソーシャルワークに携わってきました。

私がのびのび、私を生ききることができるように。
繊細ながらも、繊細であってやろうと意気込んでいます。
いつか、そっと泣いたり家出ができる隠れ家を作りたいと思っています。

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