写真のならびかたについて

長期滞在者

旧作品をぼくのギャラリーで再構成して展示する場合、作品のセレクトや展示構成のプランは大抵の場合ぼくがやることになります。ぼくがセレクトをやる場合のポイントは、最初にメインイメージを3点から5点確定させることからはじめます。
写真展とはおかしなメディアで、例え会場に40枚のプリントが並んでいたとしても、その全てを記憶出来るかというと、かなり難しい。それどころか、写真展を見たあと、数日のうちには、行ったという記憶は残るが、何が並んでいたかが全く思い出せない場合もあります。とても印象の薄い場合は、会場を後にして数時間以内に忘れてしまうものもあります。

自分がそういう経験をしているということは、ぼくの写真展を見る多くの人もそういう傾向があると考えて差し支えないと思います。だとするならば、数点でもその人の記憶に残る様なプランを考えたい。

展示構成は白い空間にどのように作品を配置するのか、という空間デザイン的な議論になりがちです。でもぼく自身は必ずしもそれが適切とは思いません。なぜなら、絵画や彫刻と比べて小型で点数が多い傾向になる写真作品のばあい、会場全体を眺め回すことはもちろんするのだけど、結局のところ、見る側は定められた(と思い込んでいる場合もある)展示順に従って写真を見ていくからです。つまり、空間の中へのアレンジよりも、イメージとイメージの繋がりの方が重要で、その中でいかに印象に残るいくつかの断片を仕込んでいくかを考えることが大切だと思っています。
このいくつかのメインイメージを最初に確定すれば、あとはその写真が重要だと感じさせる場所を探っていけば良いのです。展示の冒頭か、ラストなのか、真ん中に持ってくるのか、全体的に配置して反復させることで印象づけていくのか、を注意深く検討すれば、校正案を考えるのはそれほど大変な作業ではありません。

これまでの殆どの展示構成が、メインイメージを際立たせるために、わざと印象の異なる写真を周辺に配置したり、力の弱いイメージを混ぜ合わせることで、際出たせるという手法を使っていました。

現在開催中の有野永霧先生の30年前のビンテージプリント展「虚実空間・都市」の構成案のために、あらためてプリントを眺めていたところ、当時の有野先生の写真には、印象の強弱や、句読点にするような、捨てカットのようなイメージが一枚もないことに気がつきました。どの写真をとっても、単写真で成立するだけの画面の完成度があり、豊かなストーリーを感じさせます。この時代の有野先生の写真の特徴は、いつ、どこでという写真を読み解くための基本的な情報を意図的に排除しているところで、ヨーロッパの風景だと思っていたものが大阪だったり、その逆もあったりするところが面白さのひとつだと思い、地理的な偏りをなくすために、手元の資料を確認しながら同じ地域が隣通しにならばないように、かつ写真の見所が重なり合わないように、並べていきました。よく見てみると、空が写り込んでいる写真が実に少ないことが分かり、路面が大きく写されているイメージを横並びで8枚連続でならべました。画面の高さを通常よりも少し低い位置に展示したのですが、これは路面を写すにはレンズの頭が下がりますので、写真家の眼の動き方にちなんだ設定にしてみました。

先日有野先生が会場に来て下さり、構成案を考えている時に感じたことを質問してみました。イメージの緩急を使わないことを意識されているのか、と尋ねたところ、はっきり意識されているそうです。写真の並べに緩急をつけてストーリーを組んでいくという理屈は理解出来るがあえてそれはしたくない、てにおは、句読点、ひらがなカタカナを駆使するように編集したとしても、30〜40点のまとまりでは、話の内容としては対して展開もできないだろう、であるならば、漢文のように一字一字に意味があって、それを積み上げていくような構成もあっていいんじゃないか。と伺いました。
1枚1枚の写真に豊かさがあり、それをそのままつなぎ合わせていくのに、漢文という比喩が眼から鱗でした。

あと数日でこの展覧会は終わってしまうのだけれど、この画面の強さが伝わってくれるといいのですが。今のところこんなカッコいいスナップ、見たことがない、と概ね好評を頂いてて、少しだけほっとしています。