黄銅色にひかる景色

長期滞在者

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今では遠く離れた友人知人のことも、SNSのおかげで距離を感じさせることなく近況を知ることになり、実際に久し振りに会う人でも、あんまり久し振りの感じがしなかったりする。20代の頃、高い遠距離通話料金が払えなくて、いつ来るかわからない地元の友人たちの手紙がポストに届くのを、気長に待つのが辛うじての交流という時代を経験した身からすると、どちらかといえば便利な世の中になったと思います。先日もタイムラインで昔教えていた学生の個展のお知らせに目が留まり、車に乗って1時間半、青々した美しい田園風景の中にあるギャラリーへ足を運んできました。
卒業して間もない頃、何度かあった記憶はあるのだけど、いつ以来なのかは結局思い出すこともできないくらい久し振りに会う彼女の雰囲気は、教室で、そして黙々とプリントを作り続けていた暗室の中での印象と殆ど変わっていないように思いました。その頃から生家の片隅にあった 今は使われていない竃、竹を編んで作った大きな籠、ひんやりしと冷たい感触の土間の景色を旧式の6×6判カメラで、丁寧に端正な構図で収め続けていました。
学校の実習の中で彼女の作品制作の伴走をしていたのは、たった半年程度のことだけども、こちらに向かって来る愛着の眼差しからもたらされる印象というのは、いつまでも消えないものだ。技巧手法に走ったり、取ってつけたようなニワカ写真論を振りかざしたような作品であれば、とっくの昔に記憶からこぼれてしまったかもしれない。当の本人は、ぼくが学生時代の作品をよく覚えていることにとても驚いていたけれど、それはこちらも同感である。
ささやかだけど、力まずに、淡々と自分の中にあるリアリティーを形に収め、時々発表の機会を持ちながら、ずっと写真とともに人生を送り続けていることを知り、その作品の一端に触れることができて、その日の帰途はとても豊かな気持ちになりました。ああ、見逃さないでよかった、こういう気分は1年のうちに何度もやって来るものではない。

彼女が写し続けてきた、古い土間や台所の景色は残念ながら先ごろ建て替えのため、すでに見ることはできないのだそうですが、この間の写真で見た少々湿り気を帯びた土壁のある空間に鈍くひかる黄銅色の柄杓や鍋が置かれている景色はずっとぼくの中に残ると思っています。