春分の庭

長期滞在者

メール添付で送られてきたカレッジの地図を開くと、大きな庭が目に入った。3月の終わりに英国のオックスフォードでセミナーがあり、宿泊先は、カレッジと呼ばれる、キャンパスと寮を兼ねるような大学の敷地内にあった。カレッジはオックスフォードの街中にいくつも点在し、今回のセミナーで宿泊するところは、まだこれまでに入ったことがなかった。

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日本時間では深夜をまわったくらいの時差ぼけした頭を抱えながら、夕方19時くらいに、目的のカレッジに投宿した。部屋のある建物まで移動するあいだに、エントランスの正面にある中庭だけ、夜空の下で見ることができた。つる植物がからみつく石造りの建物に囲まれて、緑の芝生がてらてらと光っている。悪くない。

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荷物だけ置いて、夜ごはんを食べに外へ出て、ワインを一杯飲んだあとは、アルコールに溶けた眠気が頭のなかに染みわたり、早々と引きあげてシャワーを浴びて21時すぎにベッドに倒れ込むまでの記憶はおぼろげだった。

夜中にいちど目がさめた。もう朝かなと期待してスマートフォンの画面をつけても、まだ深夜の1時。日本時間では朝の9時だから、また眠るのはなかなか難しい。しかしここで起きてしまうと、朝からずっと頭がぼんやりして、本来の目的である日中のセミナーでの活動に支障が生じる。ぼんやりした頭と、体内時計ではもう朝だ! とトクトク動悸する心臓とのあいだにはさまれて、むりやりにうとうとする。

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深夜4時。7時間眠ったことになるし、もういいだろう。喉が乾いている。機内から持ってきた小さいペットボトルの水を飲み干す。ごそごそとベッドからおりて、シャワーを浴びたり、事前に買っておいたオレンジをむいて食べたりする。2階の窓の外はまだ真っ暗で、分厚いカーテンを開けて、外を眺めながら、3月末締切の仕事をすこしずつ進めていく。

絨毯敷きでセントラルヒーティングの室内はぽかぽかと暖かい。白熱灯のようなオレンジ色の光も心地が良くて、自宅にいるみたいにくつろいだ気分になってしまう。4時半になり、5時になり、5時半よりすこし前になったところで、窓の外に見えていた濃紺色の空が、ちょっと薄くなっている。日の出は6時ちょうどらしいと調べた。そういえば、今日は春分の日。ためしに窓を開けてみると、意外とそこまで寒くはない。オックスフォードには1月にしか来たことがなかったから、なんとなく、とても寒い印象がある。

日の出までの時間をそこそこ残して、いてもたってもいられなくなり、フリースの上からマウンテンパーカを羽織って外に出ていく。楽しみにしていた庭を散歩するのだ。

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建物のドアを開けて外に出ると、すこしもやのかかった空の向こうに丸い月がのぼっていた。風はなく、寒さに縮みあがるようなこともなく、じゅうぶんやっていける気温。植物や土が呼吸をはじめたような、ふかふかする春の夜の匂いがする。けれど、日本で鼻にする匂いとはどこか違う。もっと淡白で、湿り気が少ない。

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建物のすぐ外にある池に灯りが映っているのを確認しながら、大きな庭のほうに向けて歩きはじめる。芝生の運動場から、カモやガンがグワグワと鳴きながら歩いてきて、砂利敷の歩道を横切って池のなかに飛びこんでいく。私が近くまで来ると、水鳥たちは歩みを止め、芝生の上でじれったそうにこちらを見ている。朝の移動を邪魔してしまったらしい。水鳥たちの糞で汚れた部分を注意深く避けながら (水鳥の糞があんなに太いなんて知らなかった…!)、ゆっくり通りすぎる。

歩道を歩いていると、ふと沈丁花の匂いがして、立ち止まる。沈丁花の匂いがすると、本体をつい探してしまう。ぽてっとした小さな花のまとまりを脇のしげみにみつけて、鼻を近づけて匂いを再確認して、ふんふんと愉快な気持ちになって、また歩きだす。

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日の出が近づいて明るくなってくると、ほかにもいろいろ花が咲いているのがわかる。まだ、満開に咲きほこっているという感じではなくて、冬になって葉も落ちた裸の木々のあいだに、ぽつりぽつりと植物の息吹きが噴出しているような。でも、わたしはこれくらいのときがけっこう好きだ。目を覚ましはじめた春の存在感を、かえって強く感じるような気がする。

マグノリアが大きな花を咲かせていて、空気中にばらばらと花が散らばって静止しているような、変な感覚に襲われる。マグノリアの花には超現実的な雰囲気があって、いつ見ても好きだ。群生した水仙も白い花や黄色い花を咲かせていて、遠くからでもあざやかに見える。大きな木の根元にはオオツルボの青い花がびっしりと咲いていて、そこだけ青い絵の具で塗ったかのよう。そもそも景色がだいぶ絵画的だ。

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明るくなるにつれて、すばしこいクロウタドリや、まるまるとしたヨーロッパコマドリが活動をはじめて、チュイチュイピチピチ鳴きだしている。日本ではなかなか聞かない鳥たちの声がおもしろい。カレッジの庭に生えている大木をねぐらにしているのだろうか。遠くのほうからは水鳥たちのグワグワ鳴く声も聞こえてくる。

遠く向こう岸が見える池の水面にはヤナギの大木がせりだしていて、うす緑の新芽が水面に浸りそうになっている。朝の薄明かりのなかで、たくさんのヤナギの細い枝が水面に映り、どこまでが枝で、どこまでが水面に映った像なのかがよくわからない。こういう、水面にせりだした植物、大好きだ。

視線を芝生のほうに戻すと、くすんだ黄色い色の動物が駆けていく。あれはキツネ!? キツネは猛スピードで橋を渡り、別な庭のほうに消えていった。歩いてあとを追いかけて、同じ橋を渡ると、向こう側はプライベートガーデンになっていて、柵があり、人間は立ち入ることができなかった。キツネの消えていった庭を柵ごしにじろじろ検分しながら、立ち入れない領域があることで、この庭の魅力がすこし高まっているような、そんな気がした。(ふだんは、立入禁止の標識に愉快な気持ちを抱いたりすることはないのだけれど)

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石の壁にまわりを囲まれた階段を上がると、人の家の玄関前の敷地のようなところに出てしまう。奥のほうに黒猫のようなものがいると思いながら階段を登りきると、やはり黒猫であることがわかった。ゆっくり近づいていくと、つぶらな瞳で覗きかえされる。あと2メートルくらいのところで、でっぷりした黒猫は奥のほうにひらりと逃げていき、犬小屋のように見える小屋のなかに入ってしまう。この猫はこの家の飼い猫で、あれは猫小屋なのだろうか……。

しばらくしゃがみこんでにらみあっていたけれど、黒猫が歩み寄ってくれる気配はなく、また、こんな場面を家の人に見られたら不審者と間違えられるのではなかろうか……とふと気づき、ゆっくり立ちあがって、その場をあとにする。

謎を残したまま部屋に戻り、もうすっかり明るくなってきた外を眺めながらドリップのコーヒーを淹れて、仕事のつづきを再開したのだった。

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