Facebookで餓鬼憑きをみつける ー 暮しと妖怪の手帖(2号)

長期滞在者

違和感を覚える瞬間は、多い。スマートフォンの画面を見てみる。そして、Facebookのアプリを開いてみると、そこにズラリと並んでいる、見知っている人の情報情報情報情報。こんなことが世の中で起こっているんだなぁ、と驚きや喜びがある反面、なんだろうこの投稿は…?とゾッとする投稿もある。

そこにある違和感は、「この人はこの投稿をなんのためにしてるんだろう?」という疑問から生まれる。おそらくではあるが、やはり、まわりの人に”いいね”してもらいたい、コメントしてもらいたい、というような自分を「投稿」という行為によって存在理由を確かめようとしているのではないか。Instagramの存在なんて、その現象に拍車をかけているツールとも言えなくもない。

画面を通じたワンタッチ、数フリックをしてもらうことで、だれかに認めてもらいたい。この”飽くなき承認欲求”は一体どこからくるのか。そして、依存とも病的ともとれる、他者からの関心の追求は、あの存在をチラつかせる。人に憑くことで飢えを与え続ける妖怪、餓鬼(ガキ)だ。

餓鬼の話はいくつかあるが、『因果物語』にこういったものがある。江戸の石原村には、非常にけちで強欲な男がいたが、70歳のときに生きながらにして餓鬼になった。1日に4〜5升の飯を食っても食っても、食い足らず、ついには飢え苦しみながら死んだ。その餓鬼の霊が、嫁に取り憑き「飯食いたい、飯食いたい」と苦しませた。この餓鬼となった男の霊の弔いを行うことで、憑きものがとれた。という話。

江戸時代に思いを馳せると、こういった物事の背景には、ご飯がまともに食べられないような町民の姿があったことだろう。また、仏教の六道のなかにも”餓鬼道”があるので、そういった宗教的観念もあったに違いにない。餓鬼道に堕ちたものは、常に飢えに苦しむことになり、仮に食べ物を口にできても、すぐさま炎となって決して食べることができないそうだ。

当時は、食べ物に困った時代だったが、現代に日本においては、食べ物に困るということは少なくなった。マズローの5段階ある人間の基本的欲求を見てみても、低次元の「生理的欲求」「安全の欲求」はほぼほぼ満たされており、その高次となる「社会的欲求」「承認の欲求」に向き合っている人が多いのはわかりやすい。

そう考えると、現代の”飢え”の概念は大きく変わったと言える。SNSでは現代の餓鬼憑きの人間に溢れている。どんなに”いいね”をもらっても飽き足りず、その飢えは治まることなく、ただただ苦しみが続くだけだ。もしかしたら、投稿を通じて、だれかの目に触れることで、餓鬼憑きを増やしてしまっているかもしれない。認めもらおうとはするが、炎となって、認めてもらっているようで、本質的には認めてもらえないことだってある。

この現象のまがまがしさに気が付いている人はどれだけいるのか。そして、自分が餓鬼に憑かれそう/憑かれていることに目が向いている人はどれくらいいるのか。「飯食いたい」は、もはや「認めてほしい」に変わってしまったのだ。目には見えないが、かたちを変え、現代にも餓鬼は身を潜ませしている。非常にかしこい妖怪とも言える。

餓鬼という憑きものをとるためには、どうすればいいのだろう。現代の日本人にとって、餓鬼の魂を供養することとは、一体どんなことなのだろうか。これは、考える余地がありそうだ。

とりあえず、まずは自分が憑かれているのかどうかを把握すること。そこからはじめてみて、餓鬼の魂の正体を探ってみる。言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、自分の昔を振り返ってみて、”ガキ”だった幼少時代を思い出してみることは、意外と重要なのかもしれない。

我を食べる鬼と記して、餓鬼。鬼なぞに食べられて堪るかってんだ。

gaki-moeru
「妖怪をのぞけば、暮しと人がみえる、自分がみえてくる」を仮説に置きながら、勝手気侭な独自の研究を進めていくのが、超プライベート空想冊子『暮しと妖怪の手帖』。妖怪を考え、社会を考え、人を考え、自分を考え、現代における“妖怪と人の共存”のあり方を模索していけるようなダイナミズムを持ちたいと思っています(嘘)。