人物を描くことについて

長期滞在者

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誰もいない森で木が倒れたら、音はするのだろうか?

聞く人がいる、とは、どういうことなのだろうか?
それはつまり、鼓膜、耳小骨、その奥の蝸牛が空気振動を電気信号に変え、脳に送るということ。では、倒れた木自身は、己が倒れた音を聞いていないのだろうか?





思えばここ2年ほど、小説というものを殆ど読んでいませんでした。小説は、全ての主語が人間です。そうでないとしても、例えば擬人化された動物だったり、高度な人工知能だったり、これら全ては水槽に浮かぶ脳髄の見る夢でした、とか、そういう例外があるとしても、それは人間の別の形であると思えます。そういえば、映画やドラマなんかも、基本的には人間ばかりで構成されているようです。その単純さに、このところ飽きがきたのは事実です。

しかしなぜ、一人称が人間のものばかりなのだろう。私は不思議に思った。というところで、あることに気がつきました。この「私」も、人間の一人称です。つまりそういうことです。そういうことを考える自分も人間であるのだから、小説を書くのも人間であれば、ドラマを演じるのも人間で、それらを鑑賞するのも人間でしかありえないということなのです。自分が人間として思考する以上、「一人称が人間」であることからは逃れられないことがわかってきました。




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表題の「人物を描くこと」についても、だいたいはそういうことです。


絵を描いていることを誰かに伝えた場合、帰ってくる反応の典型例として、「風景画ですか?それとも人物画?」というものがありますが、あれはなんなのでしょう。それはともかくとして、自分の描く絵のなかにはだいたい人間が登場しています。しかし「人物画」というには人物の扱いがお粗末な感じです。自分の絵のなかにいる人物はなんなのか、有り体に言えば「自画像」だと思います。
奈良美智の描く、目つきの悪い少女、あれは奈良美智の「自画像」であると聞いたことがあります。つまり、自画像が書いた本人に似ている必要は全然ないわけです。
では、どんな要素が「自画像」を自画像たらしめているのか? これは個人的な考えですが、自己投影ができる、ということではないかと考えます。それはつまり、描かれた人物の目線で、描かれた風景を見ることができるということではないだろうか。少なくとも自分の描く人物にはそのような役割があります。その割りあてを果たさせるために、描かれる人物は大抵一人です。二人以上の人物がいると、その間に関係が生まれてしまうからです。それでは「自画像」にはなりません。


絵の中の人物は、自画像であり、絵の中に入り込む転送装置です。

ですから、絵の中の人物には、できるだけ落ち着いた、心地よい状態でいて欲しいと思っています。