【7月のヤバい女の子】
⚫︎天稚彦物語(七夕)
宇宙規模の遠距離恋愛をしている女の子は、光の速さでラブ・レターを出すだろうか?
その文字は星で書かれているだろうか。
七夕のイメージ・ソースとなった女性はたくさんいますね。
中国の織女。西王母。日本書紀などに見られる巫女の棚機津女、古事記の下照姫。下照姫は「輝くばかりに美しい」という名です。
それらが綯い交ぜになって、室町時代にお伽草子の「天稚彦(あめのわかひこ)物語」が生まれた。
天稚彦物語には名前のない人間の女の子が登場する。天稚彦の妻である。
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《天稚彦物語》
彼女の家は裕福だった。上に姉が二人いた。
ある日大蛇が家を訪れ、娘を差し出さなければ両親を殺すと言い残して去った。
二人の姉は断り、少女だけが求婚を受けた。
真夜中ににょろにょろとやって来た蛇は少女に、「持っている刀で私の首を切れ」と言う。ためらいながら彼女が蛇に斬りかかると、血のしたたる断面から美男子が現れる。
二人は相思相愛になり、結婚し、暮らす。男の持っていた唐櫃からありとあらゆるものが出てくるので、楽しい暮らしだ。
新婚生活の中、にわかに男が自分の正体を明かし、自分のほんとうの名前は天稚彦、海竜王なので空に帰らなければならないと言う。
男は「いいかい、絶対に唐櫃を開けてはいけないよ、開けると帰って来られなくなる。わたしが帰って来ないときは一夜で成長するひさごを伝って空に登ってきてね」と言う。
家に押しかけてきた姉たちがふざけて唐櫃を開けてしまい、夫は帰って来られなくなる。少女はひさごをつたい空に登る。
天上で待ち受けていた夫の父親、彼女にとっての舅は、鬼だった。この場合の鬼とは比喩ではなくキャラクターである。
鬼は息子と少女の結婚に反対し、無理難題を言う。
「千頭の牛を牛舎に帰らせろ」
「山積みの米俵を移動させろ」
「百足のいる蔵で夜を明かせ」などなど。
少女は夫の袖を借り、すべてやっつけていく。
鬼の舅はとうとう根負けし、「仕方ないので一月に一度なら逢引を許す」と諦めた。彼女はそれを勘違いし、「一年に一度ですか」と聞き返す。鬼はそれならそうしようと言った。
鬼が瓜を割ると中から水が湧き、川となって二人を隔てた。
こうしてふたりのデイトは一年に一度となった。
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天稚彦物語を初めて読んだときに、私は「元気なひとだなあ」と思いました。
彼女は欲しいものに向かって冒険をした。
やさしい家を出て、これまで見たことのない土地へ行き(空中ですが)、よく分からない敵と対峙し(嫁舅戦争!)、突然目の前に展開される困難を手段を選ばず乗り越えた。
難題婿譚という言葉があるように、日本の民話において試練を乗り越えて望むものを手に入れるというストーリーは男性が主人公であることが多いですね。
竹取物語、絵姿女房、姥捨て山、外国の民話でもアフリカのなぞなぞ姫など、挑戦者は男性が多い。
また、女性が主人公の物語では、彼女たちは生まれながらにして力を持っていたり、物語の終盤で人ならぬものに変身したりする(と、これまで書いたコラムを振り返って私は思います。)
道成寺の清姫は蛇になった。
牡丹灯篭のお露ちゃんは最初から死んでいた。
八百比丘尼は人間の寿命を超越した。
八百屋のお七は狂気に従った。
いざなみのみこと、このはなのさくや姫は女神だ。
鉢かづき姫は美しい顔と金を出現させた。
磯良は死によって強い力を手に入れた。
首が伸びるろくろ首のおとよは、何とエネルギッシュな存在だろう。
しかし、天稚彦物語の少女は、最後まで人間です。彼女は自分の個性を捨てなかった。そしてそのまま愛するひとを勝ち取った。
男の家族と同じ鬼になれば、ひとつ屋根の下で暮らせたかもしれない。そうすれば年に一度なんてことにはならずに済んだろう。あるいは、恋をなかったことにして地上に帰った方がよかったかも。そうすればきっと、あたたかな実家で家族と暮らせただろう。
彼女はそのどちらも選ばずに、知らない土地で、ひとり人間のままでいる。
彼女は全く変化しなかったのだろうか。
彼女はかつて、あどけない少女だった。今はあどけなく屈強な少女である。
「会いたい」という気持ちは、どうやって生まれるのだろう。
天稚彦とその妻は二度離ればなれになる。
一度目は男が自分の世界に帰ったとき。二度目は川が二人の間にとうとうと横たわったときです。
一度目の別れでは、少女はあらゆる困難を乗り越え男に会いに行った。
私は不思議に思いました。
このとき少女は、軽やかな反則とも言える行為で難問を撃破した。即ち、夫の衣服を利用して牛や百足を操ったり、蟻に米を運ばせたりしたのです。
私は彼女の武勇伝に、「多少無理をしても本懐を遂げる」という気概を感じました。
しかし二度目の別れのシーンでは、彼女は川を越えるどころか、せっかく月に一度会えるところを一年に一度に引き伸ばしてしまった。
さっきまでの逞しさ、なりふり構わなさがあれば、川のひとつやふたつ越えられるのではないか?あるいは、「もう一つ課題をクリアするから、一週間に一度会わせてちょうだい」とごり押しすることくらいできるのではないか。
ところで、いつもそばにいないことは愛していないことになるだろうか。
例えば、仲良しのふたりがいたとしますね。友達どうしでも、恋人どうしでも良い。
朝起きたら挨拶をして、場合によっては毎朝接吻をして、朝食を一緒に作って、行って来ますと言い、それぞれ仕事や学校に出かけていって、また同じところへ帰ってくる。
それはすばらしい暮らしですね。それは楽しい。
僕たちは愛を持っているからそういった暮らしをしたいと言われたら、なかなかどうして、なるほどねと思います。
では、その逆はどうか。
そういった暮らしーーー常に近くにいるという暮らしをしなければ、そこに愛はないのだろうか。
私は、近くにいないということは、具体的に下記のような不便があると思います。
目を見つめようとしなければ目を見つめることができない。
手を取ろうとしなければ手を取ることができない。
寝込んだときに湯たんぽを作れない。
近況をすぐに知ることができない。
近況を知ろうとしなければ知ることができない。
天稚彦物語に影響を与えた古事記では、下照姫という女性が登場します。
彼女は輝くばかりに美しいという名前を持ち、その夫は物語の終盤で死ぬ。
永訣は最も遠い遠距離恋愛です。それから、終わった恋もきっと遠距離恋愛ですね。
終わったことを考えると、過去のことって本当にあったのだろうかと思います。
私たちはほんとうにあった?
そこに誠実さはあった?
時間は存在したかな?
かえるの鳴いていたのを覚えている?
真夜中のさんぽはしたっけ?
そこに愛は?愛はあった?
あった。確かにあった。私はそれを経験した。
少女が一年に一度の逢瀬で愛を存在させ続けることが出来るのは、そこに彼女が「いる」からだ。
私がいまここにいるならば、愛は経験としてあった。経験としてあったから、私がいまここにいる。
それは私の体を作っているし、思想を作っている。顔と着る洋服を作っている。食べたい料理を。音楽を。芸術を。マニキュアーの色を。読書を。人生を。
そのふくよかな地層の前で、ぜんたい一ヶ月と一年にどんな違いがあると言えるだろう。
仮に彼らがこのまま永遠の愛を貫かなかったとしたら、それは悲恋だろうか?私はそう思わない。
少女は愛を知って、はげしい戦いに身を置き、そして断然魅力的になった。それは歴史です。物語がその後どんな展開になろうと、歴史は動かしようがない。
彼女が精神的に自立し、うつくしく、チャーミングで、
たまに気だるく、仕事をしたりサボタージュしたり、ときどき悪口を言ったりして、ただ今ここに生きていること。それだけが私たちの愛の証明だ。愛を突きつけてやりたいからといって、電車の中で恋人とキスをする必要は必ずしもない。あなたはただ呼吸をすればいいのだ。
ハロー、こちらベガ…ワーオ!お久しぶりね!でもごめんなさい、今手が離せないの。この前話したプロジェクトが大変なことになっちゃって。朝も夜もてんやわんやよ。
今日?例のギラギラのスーツを着てる。銀色の。強そうでしょう、よく光るわよ。晴れた日ならそこからでも見えるかも…なんたって一等星だから。あなたはきっと白と黒のシャツを着てるわね。ハズレ?新調したの?
あっ、ほんとにもう行かなきゃ。電話が鳴りっぱなしなの。またかけなおすわ。それから手紙も書く。
だけど便箋に「会いたい」という言葉じゃなくて、超長い小説や詩が書かれていても、どうか怒らないでちょうだいね。