【9月のヤバい女の子/理不尽とヤバい女の子】
●トヨウケビメ(羽衣伝説/奈具の社)
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《羽衣伝説/奈具の社》
岩陰に水音と女の声。
丹波の山にて八人の天女が水浴びをしていた。
飛沫が舞い、傍らに置かれた彼女らの羽衣を湿らせる。薄く発光するように美しい布は岩の上に無防備に投げ出されたままだ。
軽やかに遊ぶ八人に、ふと不穏な影が近づく。近くに住む和奈佐という老夫婦である。彼らはこっそり水辺に近づき、羽衣を一枚盗んで隠してしまった。
そろそろ天に戻ろうかという頃になって、天女たちはようやく羽衣が七枚しかないことに気づく。
盗まれた一枚の持ち主である少女――青ざめる彼女を残し、仲間たちは次々に飛び立っていった。彼女は地上に立ち尽くしていた。
困り果てた少女の前に老夫婦が白々しく登場し、行くあてがないなら養女にしてやろうと言う。他に頼る者はいなかった。
和奈佐の家は天女の力によって急激に富んだ。あれから十数年が経ち、老人たちは長者と呼ばれていた。大きな屋敷。良い着物。米や魚。その広い屋敷の広い一室に義理の娘を呼び出し、彼らは言った。
「お前は私達の子ではない。これ以上養うのは惜しいから早く出て行ってくれ」
完全なる絶望。他に言い表す言葉がなかった。
「天の原降り放け見れば霞立ち家路惑ひて行方知らずも」と言い残し、少女は村を出た。
長い間あちこちを放浪し、やがて彼女の足は舟木という里でとまった。
「この地で私の心はなぐしく(穏やかに)なりました」と言ったことからこの土地を奈具(なぐ)と呼ぶようになった。
天女でも人間でもない女の子はトヨウケビメという名前になり、今も奈具神社に祀られている。
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読み終えて、私はちょっと面食らってしまった。
こんなことってある?いや、実際問題こういう最悪なことは割とよくあるかもしれないけど、もうちょっと何とかならなかったのか。
老夫婦は彼女を散々利用して追い出した。彼らは最後まで羽衣を返してくれなかった。ただ少女を消費しただけだった。
老人と老婆は若く美しい少女をサーカスのように見た。それから金のように、最後にはごみのように見た。彼女の持ち物(だったもの)は自分たちの好きなように扱っていいもののように見えていた。
もしもこの女の子がリンゴを片手で潰せるほど筋骨隆々で羽衣を持たずとも不思議な力が使えたなら、ストーリーの結末は違ったものになっていただろう。実際には、そうではなかった。彼女の力は羽衣に集約されていた。唯一の拠りどころはいとも簡単に取り上げられてしまった。
それにしても、気になるのは残りの七人の天女だ。とにかく冷たい。冷たすぎる。彼女らの関係が家族なのか友達なのか知人程度なのか分からないが、せっかく七人もいるんだから誰か一人くらい親身になってくれてもよくない?
もし友人たちが本気で彼女を救おうとすれば、それは不可能なことではないように思える。二人がかりで抱えて飛ぶとか、一旦天に帰って緊急用の羽衣を持ってきてくれるとか。老夫婦をボコボコにして羽衣を取り返したっていい。彼女は何年も地上で暮らしていたのだから、一度くらい助けが来てもおかしくないはずだ。だけど誰もそれをしなかった。
少女にとっての最大の不幸は、自分の身に起こったことに少しも理由がなかったことだ。
彼女が選ばれたのには何の理由もなかった。天女は全部で八人いた。多分、彼女は偶然、老人と老婆から一番近いところにいた。ただそれだけだった。
規則を破って一人で遠くまで行ったり、一人だけ特別に油断して眠り込んでいたり、あるいは人間を騙してやろうと企んで悪いことをしたりしていれば、まだ展開に理性を感じることができる。(もちろん油断していたからといってひどい目に遭って当然という道理はないが。)
だけど彼女は何の理由もなく、突然これまでとまるきり異なる、望んだわけでもない意味不明な世界へ放り込まれた。
無差別に理不尽な目に遭うこと。こんなことはもちろんおかしい。もちろん許されない。誰がどう見ても私は悪くない。だけど誰もどうにもしてくれない。
なんで私なの?なぜ私だけがこんな目に遭わなければならないの。あの子でもあの子でもよかったはずなのに。
異世界へテレポートしてしまうという設定は、ファンタジーでよくありますね。ノスタル爺、魔法騎士レイアース、ふしぎ遊戯、信長協奏曲、コスモス楽園記、MOON、おしいれのぼうけん。
1995年に公開された映画「ジュマンジ」は不思議なボードゲームの中に閉じ込められてしまう子供たちの物語です。ゲームの中では次々とあり得ないことが起こり、それが現実世界に溢れ出していく。
主人公のアラン少年は、子供の頃にゲームの世界に引き込まれ、そのまま26年も彷徨って大人になってしまったキャラクターだ。「こっち」と「あっち」の世界は案外あっさりとリンクしているのに、この少年はゲームの中から脱出できず、「あっち」の世界線で成長する。そしてエンディングでは「こっち」の世界に「あっち」での精神的成長を反映させる。
彼女ら彼らは元の世界に戻って来たり、新しい世界で新しい人生を歩んだりしてキャラクターとしての役目を終えるが、誰一人として「元の自分」のまま変わらなかった人物はいなかった。方向の良し悪しこそあれ、必ず予期しない変化があった。
昔話においても、変化はたいてい存在する。例えば羽衣伝説のバリエーションの一つである「天人女房」は、人間のように地上の男性と結婚をする。「かぐや姫」は結婚はしないが故郷から迎えが来て、二度と会えない神々しい存在になる。
だけど彼女はそのどちらでもなかった。彼女は誰とも結婚せず、誰も彼女を迎えに来なかった。
彼女は変化しなかった。自分の身に起こったことに感動的な意味を見出さず、精神的成長を描かれることなく、ストーリーと関係なく、彼女の心は「なぐしく」なった。彼女の安らぎはどこから生まれたのだろう。
物語の後半、彼女は何も持っていなかった。天にいた頃のいっさいの名残を剥ぎ取られ、家を追われ、助けもなく、ただ土地を移動する。
ーー私、考えもしなかったことになっちゃって、物語のメインストリームから外れてしまったのだろうか?私の物語は永遠に失われてしまったのか?
「物語が失われる」というのは、あたかも語られるべき正しい物語と間違った物語があるような言い方である。私は、七人の女友達がちっとも助けてくれなかった理由はここにあるのではないかと思います。
全て奪われる女の子は誰でもよかった。あの子でもあの子でもあの子でもよかった。少女を助けようとするとそのことに向き合わなければならない。全て奪われるのは、私でもよかった。さらに悪いことに、その略奪には何の意味もないのだ。物語は守ってくれないし、努力と清い心は特に結果に反映されない。
七人の少女たちはナンセンスを受け入れることができなかった。それは彼女らがたまたま観客だったからだ。因果関係が崩壊していて、いい気持ちにもなれない映画をほとんどの人が拒絶するように、少女たちもこの事件から目を背けたのだった。
ところで、優雅な生活こそが最高の復讐である、という言葉がありますね。私は「物語に従わないことが最高の復讐」だと思います。
物語を無効化する。あるいは、まったく因果関係のない別の物語を始めてしまう。勝手な展開で許可なくエンドロールを流そうとする何者かの、一切登場しないまったく新しい物語。それによって復讐は完成し、私の心は安らぐのだ。
トヨウケビメの「ウケ」とは食物を意味する。食物を食べること。生きて存在していること。勝手に幕を下ろさせないこと。閉じられた緞帳の隙間から躍り出ること。
人間界での彼女の物語には激しい復讐劇も、華々しいラブロマンスも、感動の友情エピソードも、壮大な成功譚もない。
だけどそれは必ずしも必要な要素だったろうか。物語はこうでなければならないというガイドラインはあったろうか。月9での放送に耐えうるスリリングな展開がなくてはならないのか。脈々と続く生活がつまらないからといって誰が打ち切りにできるだろうか。
ご愛読ありがとうございました、○○先生の次回作にご期待ください!
次回作はこのページ、次の行からすぐに始まります。