当番ノート 第52期
田んぼを遠くから見ると、その整然とした風景に圧巻されることがある。緑の絨毯と例えられるその風景は、日本人の誇れるものの一つだろう。 田んぼを近くから見ると、一うね一うね、真っ直ぐに一糸乱れることなく植えられている。田植機のない時代から日本人はまっすぐに苗を植えた。 糸をピンと張ってそれに沿って植えたり、木で作った農具を定規のようにあてて植えたり、工夫して美しく植えた。雑草も一本たりとも許さなか…
当番ノート 第52期
小学校のころ通わされていた英会話スクールでは、みそっかすだった。 毎年サマーキャンプとクリスマスパーティーがあるから、という理由だけで入れられたそこはとても熱心なスクールで、教師とはもちろん、子ども同士でも日本語での会話は禁止、毎朝5時に起きてラジオを聴いて、暗唱のテストに受からなければ教室に入れない、そして日本の名前は使用しない、という場所だった。わたしは社交性がなく、寝坊で、忘れっぽかった。…
当番ノート 第52期
話がうまくないから、人と話すのが嫌だ。とても筋が通っているように思う。一見すれば、だけれど。でも、私の行動としては話しかけに行ってしまう。話がうまくないのに。自分では、馬鹿だなあと思う。できないことをやっても意味がないのに、どうして人と話そうとするんだろう。 人と話して、笑顔を浮かべていると、「私」が私を遠くから見ている気分になる。今、無理して笑っているなとわかる。無理して笑っているから、頬の筋肉…
長期滞在者
3年ほど前から、タイヤが小さいながらも、なかなかにスピードが出る自転車に乗っている。 同居人の親友から譲り受けたものだが、サイズ感も手入れのしやすさも、凝り過ぎることなく自転車ライフを手頃に楽しみたい私にはぴったりであった。 また、偶然にも、チェーンロックの4桁の番号が私の誕生日と同じ番号であった。元々の持ち主が、とあるテクノユニットの片方のメンバーの誕生日をチェーンの解除番号にしていたようだが、…
当番ノート 第52期
「手の記憶」 神様の持っている袋一杯の美しいもの それを人はきらめきと呼ぶんだけれど その煌めきをばらまいてしまうところから このお話を始めましょう そもそも神様は その煌めきにうんざりしていました 人は眩しい、綺麗と賞賛するそれも、当の神様にはただの暗がりでした そうしてある時思ったのです そんなに欲しいならくれてやろうか、 この暗がりを、暮れてやろうか そうして神様は袋の口を開き 開かれた袋の…
当番ノート 第52期
とかく祖母には甘ったれて育った。誰に何をねだるのも下手な子どもだったけれど、祖母にだけは驚くほど素直にねだったものだ。あの、とろけるように甘い飲み物。 祖母の喫茶店は「奈美樹(なみき)」といった。立派な一軒家の一階に店を構えていて、二階は住居になっていた。とんがり屋根の家、といえば祖母の家のことだ。昔からの住人ならすぐに分かる。 アール・デコ調のこってりとした白とグレーの壁に、ステンドグラスの…
スケッチブック
7月4日 「ばいばーい」小さな手が振られて、タクシーのドアがすうと閉まる。朝6時。しおと順が実家に帰った。「おじいちゃん、おばあちゃん、来ていいって」先週そう伝えた時は、「やったああああ」と叫びながら、保育園からの帰り道を駆け出し、昨日荷造りの前にもう一度伝えると、四つん這いになって両足を宙に何度も蹴り上げた。おかしくてカメラを向けると、たまらず顔を自分の腕に埋めて、ひとこと「よろこびです」と、呟…
鍵を開けて 詩人が「しょぼい喫茶店」に立った日々のこと
「来ぬ人を待つ」カフェをひらいたのは、ちょうど一年前のお盆が過ぎたころだった。この国ではお盆と終戦記念日、それから一年でいちばんの暑さとが重なることになっていて、どうしても死のけはいが濃くなる。いる人といない人とが、いつもより曖昧に交差するような気がする。 「来ぬ人を待つ」は、ほかの場の詩企画にくらべるとやや地味だ。わたしを含む、その場にいる人全員で、「まだ来ていない誰かを待っている」というテイで…
長期滞在者
仕事帰りに夜の武庫川サイクルロードを走行中、僕の漕ぐ自転車の前を、何やら半透明の、灰色をした、大きさは20cm前後の、平たい何かが横切った。目の前数メートル、地上30~40cmくらいだろうか。武庫川の自転車道は夜は街灯も少ないのだが、少し上を並行して走る自動車用道路からライトが漏れてくる。向こうから車が通過するたびに明滅する路上で、暗いとはいっても、それが半透明で灰色、平たい、ということはわりとは…
当番ノート 第52期
一人で生きたいということは、一人で死にたいとも言い換えられるのかもしれない。そんなことを思うようになった。当たり前かもしれない。一人で生きた人は死ぬときも一人なのだろうから。 一人で生きたいと言い始めたのは、結構小さな頃からだった。家族が嫌いだったし、家族に予定を左右されることが大嫌いだった。皆でどこかへ出かけることについても、基本的に面倒くささが勝った。小さい頃は今よりも車酔いがひどく、遠出すれ…
長期滞在者
半年、待っていた。 あまりにも家に篭りすぎていて、すっかり季節感をなくしていた8月。結婚披露宴やイベントの司会で、20年以上お世話になっている事務所からの仕事が半年ぶりに決まった。 3月に入ってから、この事務所からの仕事は全て延期か中止になった。8月の仕事も依頼があったものの、新型コロナウイルスの感染者の増加で、どうなることやらと気が気ではなかったが、無事に行われることになった。 久しぶりにスーツ…
長期滞在者
何年かぶりに夏休みを取りました。毎年のように今年こそは休もうかな、と思っていながらいつもは結局のこところギャラリーを開けてしまいます。 かつて、ギャラリーは、夏の間は長めのお休みを取るのが当たり前でした。 6月の終わりから、9月の中頃という、一昔前の大学生もびっくりという休業はそんなに珍しいことではありませんでした。作品の蒐集をする富裕層がバケーションの時期に開けていても作品は売れないから休む。嘘…