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2F/当番ノート

やがてそれも、化石になる(5)ルース

当番ノート 第52期

 小学校のころ通わされていた英会話スクールでは、みそっかすだった。
 毎年サマーキャンプとクリスマスパーティーがあるから、という理由だけで入れられたそこはとても熱心なスクールで、教師とはもちろん、子ども同士でも日本語での会話は禁止、毎朝5時に起きてラジオを聴いて、暗唱のテストに受からなければ教室に入れない、そして日本の名前は使用しない、という場所だった。わたしは社交性がなく、寝坊で、忘れっぽかった。

 わたしはそこで、ルースという名前をもらった。
 入学式で名前を呼ばれたとき、とてもがっかりした。他の女の子たちがメアリーとか、キャシーとか、エマとか、アリスとかかわいい名前をもらって「ヒア!」と元気よく手を上げているあいだ、わたしはがっくりと肩を落としていた。カードに書かれた名前を受け取るとき、なんてさえない名前なんだろう、とおもった。ルーシーとか、ルビーとか、他にはなかったんだろうか。それに、あの先生の顔。名前を名乗るたびに、あんなふうに舌を突き出さなくちゃいけないなんて。
 案の定、オープンクラスでわたしだけが何度も名前を言いなおすはめになった。ノーノー、リッスン、プリーズリピートアフターミー。ルース、ス、ス。
 わたしがグッドをもらったのは、アップルの発音だけだった。
 ルースという名前の意味を調べると、哀れみ、とあった。なんてさみしい名前なんだろう。

 送迎バスはものの20分で車酔いするので、とちゅうから一人だけ自転車で通った。ずっと坂道なので、押して登るためにほとんど歩いていた。そのせいで遅刻すると、友だちからはルーズと呼ばれる。
 毎朝5時のラジオはちっとも起きれなくて、火曜日はゆううつだった。オーマイゴッド、ルース・・・。恥ずかしくて列のうしろに並んでうつむいている前で、ふとっちょのキャシーがキンキン声で朝のラジオを読みあげ、ちらっと視線をよこして教室に入っていく。前の子のを聴いて、覚えるのだ。三回も並びなおしたころ、ルースはだめね、と言われた。
 わたしは泣いて、ルースじゃないもん、と言えずにしゃくりあげていた。そうすると先生は、青い目をやわらかくして抱きしめてくれた。アイラブユー、ルース。アイ・ラブ・ユー。オーケー?
 それからわたしは進級できず、スクールを辞めた。

 

 ルース、と呼ばれた気がした。
 町のパン屋だった。高校生になったわたしは、そこでアルバイトをしていた。
 同い年くらいの、大人びた雰囲気のある女の子が、トレーとトングを持ったまま、「ルースでしょ?」ともう一度言う。誰だっただろう、と頭で考えて、それが全部向こうの名前だったのがおかしかった。
「リジー・・・エリザベスだよ」
 おもわず、ぷーっと吹き出してしまった。──エリザベスだよ。
「あ!笑わないでよ!」
「ごめんね、だって急だったから」
 他に客がいなかったので、わたしたちは少しだけお互いの話をした。
 リジーはキャビン・アテンダントを目指していて、年上の彼氏がいて、今もあのスクールに通っているらしかった。クラスの中でも、ずっとじょうずに話す女の子だった。中学校は同じだったけれど、クラスが違ったのと、わたしがスクールを辞めてからはぜんぜん喋っていなかった。
「私、ルースって名前いいなあって思ってたよ」
「え!なんで?嫌だったよ、ルーズとか言われるし・・・」
「かっこいいじゃない、男の子にも女の子にもなれるし。私なんてクイーンって呼ばれて恥ずかしかったもん。それにいっしょだよ、スの発音」
 前歯でほんの少し舌を噛んでみせるリジーに、わたしはもう一度吹き出してしまった。じゃあ元気でね、と彼女が店を出て行ったあと、なんとなく口にしてみる。ノーノー、リッスン、プリーズリピートアフターミー。ルース、ス、ス。

 数年後、リジーはきちんとキャビン・アテンダントになり、結婚したことをしった。苗字を見て、ぜんぜん似合わない、とおもった。
 わたしはときどき、ルース、と呟いてみる。

青柳 ハルコ

青柳 ハルコ

1989年生まれ。
名古屋在住。文筆家。
雑貨と住居と海外ドラマとトーストが好き。

Reviewed by
冬日さつき

 ルース、かっこいい。そういえば、ある日パーティーで出会ったトルコ人がわたしにトルコ語の名前を与えてくれて、どういう意味か聞くと、「しずかな夜」だと言った。わたしはその意味をとても気に入ったのに、いまではそれがどんな名前だったかをすっかり忘れてしまった。

 突然持つことになった新しい名前のほうがじぶんの存在よりも後なのに、ルースがルーズと言われたり、エリザベスがクイーンと呼ばれたりするのはなんだか本人たちにとっては腑に落ちないだろう。それでも、名前ってもしかしたらそういう面もあるのかもしれない。まったく別の名前を持つじぶんを想像してみてもうまくイメージが浮かばないけれど、いざ与えられると、他者は先だったその名前を通してじぶんを見ることが多いから。

 青柳さんは今でもだれかにとってのルースなのだろう。ス、ス、ス。日本語にない、thのサウンド。わたしもあえてつけるならば、発音の難しいものにしてみたい。

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