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2F/当番ノート

やがてそれも、化石になる(1)アンモナイト

当番ノート 第52期

 貝殻に耳をあてると、海の音がする。

 母はそういうことを平気で言う人だった。
 友だちと喧嘩をして泣いて帰った日も、図工の時間にじょうずに描けなかった日も、ポートボールで補欠になったときも、母は海で拾ったタカラガイやクモガイをわたしの耳にくっつけた。そうすると周りの音はもやがかかったようになって、さあさあ、とか、ごうごう、とか、プールに潜ったときのようなくぐもった音がする。
 貝によって音がちがうのはなぜかと聞けば、故郷の海がちがうから、とこれまた眉と唇を得意げに吊り上げた、「へいちゃら」な顔をして言うのだ。お陰でうちに遊びに来たクラスメイトに、タカラガイが誘拐されたりした(ちゃんと返してもらった)。

 こんなこともあった。

 ある日、母は自分の、わたしの顔くらいの大きさもあるうずまき貝を拾ってきて、これはアンモナイトよ、と言った。それはぜったいにうそだ、とおもったけれど、母はもちろん「へいちゃら」な顔だった。
 それでしかたなく、わたしは母がいない隙を狙って、母の本棚の恐竜図鑑をこっそり読んだ。おかしな話だけれど、わたしは母の言葉を疑うとき、彼女の本棚で真偽を確かめることにしていた。
 曰く、アンモナイトは確かに絶滅している──どこかから飛んできた小惑星がぶつかったらしい。さぞびっくりしたことだろう──けれど、まだまだ世界のどこかで化石になって眠っているらしい。母はどこかでこのアンモナイトを発見して、土を洗い流してやり、見つからないよう、そうっと持って帰ってきたのかもしれない。もし誰かに知られたら、博物館とか、もしかしたら水族館とか──なんと言っても海の生き物なのだ──に持ち去られて、「さわらないでください」とか、「おてをふれないでください」とか、「しゃしんはとらないでください」とか貼られて、孤独な日々を送るのかもしれない。
 それならうちにいた方が安全だし、時々こうして耳をあててもらえるはずだ。とにかくわたしは、秘密にしておくことにした。

 母のアンモナイトからは、ひゅうひゅうと冬の海の音がした。きっと氷河期を乗り越えてきたにちがいない。それからうんと時間が経って、アンモナイトはいつの間にかいなくなった。

 アンモナイトの話はこれでおしまいだ。
 思い出は美化される、というけれど、子どものころの記憶はそうはならないと思っている。いいことも、悪いことも、そのままの形で残っている。じっさい大人になると、都合というやっかいなものがあって、それによってドラマチックになったり、答え合わせに躍起になったり、結末が変わって(または用意されて)いたりする。
 その点、子どものころの思い出の多くは、「さわらないでください」「おてをふれないでください」の張り紙とともに、孤独な化石になる。
 あるいはベランダの隅で。あるいは庭の植木鉢の中で。あるいは箪笥の奥で。あるいは公園の砂場のバケツの底で。あるいは小さくなった服のポケットの内側で。あるいは一枚のフィルム写真の光で。折に触れて、そのままの姿で。
 ただし、そういう化石ができあがるまでには時間がかかる。それこそ、大人になるくらいの。

 ドラマチックにしたり、答え合わせなんかを始めたりしないよう、「おてをふれないで」眺められる大人だけが、化石たちに出会える。

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はじめまして、青柳 ハルコです。
今日から2ヶ月、ここアパートメントで文章を書くことになりました。「化石になったもの」をテーマに毎週日曜日に書きます。

あなたもわたしも、やがて化石になる。

青柳 ハルコ

青柳 ハルコ

1989年生まれ。
名古屋在住。文筆家。
雑貨と住居と海外ドラマとトーストが好き。

Reviewed by
冬日さつき

 最後に海へ行ったときのことを思い出す。わたしは寄せる波に呼吸を合わせてみたりする。青柳さんのお母さまが実践するように、貝を持つことで「海を持ち運べる」ようになるのは、とてもおもしろいなとおもう。貝から聞こえる海の音は、じぶんの体の中の音だと聞いたことがある。もしかしたらわたしたちは身体の中に海を持っているのかもしれない。涙がしょっぱいのも、それが理由だと考えることもできる。わたしも「へいちゃら」な顔で、そんなふうに伝えてみたい。

 時を経て化石になった子どものころの思い出を遠くからながめる。いつのまに起きた出来事を「じぶんにとってよいほうへ」と美化していけるようになったのだろう。大人が生き残るすべのひとつでもあるのかもしれない。青柳さんが言うように、わたしたちもやがて化石になっていく。きっとそのままの姿で、美化なんてされずに。

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