初めてカフェという場所に入ったのはいつ、どこのことだったろうと思う。
そもそもカフェブームというのがいつ到来したのかさえ、正確には分からない。
中学生の頃は友達の家かカラオケ、だったような気がする。
高校生の頃はファストフード店が主で、一番それらしい店は神戸屋キッチンだった。
でも、神戸屋キッチンはカフェと言うよりベーカリーと言うべき場所という感じがするし、だとすれば、大学生になるまで(喫茶店を含む)カフェに入ったことがなかったのではないだろうか、と今書いていて思い当ったことに少しびっくりしている。
今ではこんなに身近な、どころか、時間が空いてしまった時にカフェがなければ一体どこに入れば良いのか逡巡してしまうくらい、心の拠り所となっている場所だというのに。
ここ一週間の内、素敵なカフェを2軒も発掘した。
ひとつは新宿三丁目にある。
革張りのソファはたっぷりとしていて、天井が高く広々と開放的で、本がたくさん置いてある。
そこに5年来と10年来の友人と行ったのだけれど、5年来の友人とは初めて逢った場所も本が置いてあるギャラリーカフェで、でもそこはもうなくなってしまってとても残念に思っていたので、また本のあるカフェで一緒にお茶を飲めることが嬉しかった。
今度行くときには、そこでご飯を食べようと思っている。
もうひとつは、打ち合わせで連れて行っていただいた四谷三丁目にあるカフェ。
これぞ隠れ家と言うべき佇まいといい、店内にしつらえられたインテリアやかかっているジャズのセンスといい、絶妙な「カフェ具合」なのだ(店主曰く、ここは断じて「カフェ」なのであって、お酒も出すけれど「バー」ではない)。
素晴らしく香ばしくコクがあるのにすっきりとした後味の珈琲、つつましい甘さの手作りフォンダンショコラ、フレッシュなミントの香りたっぷりのモヒートなど、メニューはそう多くないけれど全部試したくなるくらい美味しい。
夜11時くらいまでやっているそうで、そんな時間に美味しい珈琲が飲めるというのは嬉しい。
カフェには色々な思い出がある。
たとえば、留学していたハンブルクのコロナーデンにあるカフェのこと。
コロナーデンというのは通りの名前で、通り沿いにあるこの街でおそらく一番大きな語学学校「コロン」に通いながら音楽学校にも通っていたのだけれど、良くランチを食べに行っていたカフェの、ドイツでは珍しく完璧に近いパスタの味やワイン片手に談笑しているスーツ族のことを覚えている。
この街の人たちは昼からアルコールを摂取し、そんな風にして生活をしていけるのだと衝撃を受けたものだ。
それから、後にも先にも一度しか入らなかったカフェで食べた、殴り倒されるような甘さの小さな丸い焼き菓子のこと(一緒にいた友人が、ポルトガルのお菓子だと教えてくれた)や、雨の降る中央駅にほど近いカフェの、悲しく途方に暮れた珈琲と煙草の匂い。
誰とどんな話をしたのか、こまごまと思い出すことができる。
初めてスターバックスコーヒーに入った時のことも印象深い。
当時私は大学2年生で、良く話題には上るものの、大学からほど近い場所にあるにも関わらず、なぜだか気恥ずかしく勇気が要ってなかなか入ることができずにいた。
たとえば飲み物を自由にカスタマイズできる─トッピングを追加できたりシロップを加えたり─だとか、そもそも名前からして聞き覚えのない飲み物が存在するということに馴染めなかったのだろうと思う。
カウンターで混乱してスムーズに注文できないに決まっている、と思っていた。
最初の難関を突破した結果、以来授業の合間、練習室が取れずすることがない時にはスターバックスで過ごすことが常になった。
他にもある。
釣りブランコのある素敵に居心地が良く、いつもつい緊張を解いてしまって饒舌になるか、ややもすると涙がこぼれてしまうカフェと、ホットチョコレートがおいしくて、洞窟に居るみたいで現実からちょっとだけ逃れられる(気がする)カフェも吉祥寺にある(でも、ここにはもう行かれない)。
銀座にはパリに居る気分になれるオープンカフェがあり、代官山にはまるで赤毛のアンに出てきそうな可愛らしく温かいパイ専門のカフェがある。
空間も料理もお菓子も絶対の信頼を寄せているカフェが2軒、家の近所にある。
書こうと思えばきりがない。
受け入れてもらえる、という安心感なのだと思う。
行けば必ず迎え入れてくれ、よほど小さな店であるか行列ができていない限り、「実のあることをせずとも」そこで過ごすことを赦されている。
大切なのは、そのことだ。
ところで、四谷三丁目での打ち合わせのこと。
まだ詳しくは書けないのだけれど、ここであるイベントをさせていただけることになりそうで、少しだけ音も出させていただいた。
空間に音が馴染んでいく手触りが感じられたのは、でも珍しいことだ。
初めて弾く場所でそんな感触を得ることは滅多にない。
ある程度弾き込んでいけばもちろん「馴染ませる」ことはできるのだけれど。
筆に絵具を取って水に溶かすみたいに、楽器からするすると音が流れていった。
その後で、打ち合わせとは名ばかりのプライベートトークで盛り上がったお相手の即興ペインターの方が、デッサンやアイディアやその他の覚え書きでいっぱいの手持ちのノートに、さささっと私の似顔絵を描いて下さった(その時、私たちは共感覚及び形式に囚われず自分の畑で表現をするということ、について話していて、彼女が敢えてデッサンをせずに絵と向き合っていた頃にしていた方法のひとつを披露して下さったのだ)。
一筆書きのように、それは鮮やかで潔い描きっぷりで、しかもなんとも言えず素敵に色っぽく描かれており、思わず「欲しい!」と呟いてしまったら、びりびりとノートを破って「どうぞどうぞ」と差し出してくれた。
その日ちょうど持っていたクリアファイルに大事に仕舞って持って帰り、今もこれを書いているテーブルの上に立てかけてある。
どこかで調度良いサイズの写真立てか額縁を買ってこなくては、と思っている。