流れる 流れる 追いかける ひろう
とりこぼす 追いかける 追いかける つかまえる
探る 掬いあげる 紡ぐ
ゆだねる 立ち止まる 溢れる 手放す
新しい楽譜を手にするとき、まず音源を聴く。
その楽曲の全体像を見るために、楽譜を離してただぼんやりしながら。
骨格のようなものがなんとなく浮かび上がってきたら、構造を把握するために最初から最後まで弾いてみる。
そこでいつもたくさんつまづく。
たとえば、聴いたままのイメージと自分が持っている手駒の中のあれこれがうまく噛み合わないということや、単純に自分にとって弾きにくい類の構造であることや、思いのほか音をなぞることが難しいなどの技術的なことから、感覚的な違和感など、その他にも細かいことを言えばキリがないくらいある。
じゃあ最初に音源を聴く時点で楽譜とにらめっこすればいいのでは、とも思う。
でも、ダメ。
楽譜の構造は頭に入っても代わりに楽曲の方のそれが見えなくなってしまう。
つくづく不器用だなと思うし、そのやり方を訓練しようとしたこともあるけれど、私にとってそれは無駄なことだと気がついた。
馴染まないやり方を練習するより、多少多く手順を踏んだ方が結局は早い。
たぶんこれが正解というようなものはどこにもなくて、あるとすれば自分だけの、ごく個人的なものだけだ。
それはでも、本当に小さな世界なのだと突然気づかされる瞬間がある。
それで時々とてつもない無力さに襲われる。
ほとんど喪失感といってもいい。
なににも手が届かないような、世界の一部であるという存在感さえ見失うような─
なぜ弾くかと問われれば、弾かずにはいられないからと答えるしかない。
音楽の美しさを知っているし、近寄り難いと思われがちなクラシック音楽にも素晴らしい曲は本当にたくさんあって、だからそれを届けたいのだと言えれば一番いい。
でも、演奏家は至るところにいて私が弾かなくても誰かが届けてくれる。
誰も困らない。
弾かないと生きられる気がしないだけ。
本当のところは、ただそれだけだ。
舞台というのはまるごとの自分そのもので立つしかないものだから、非力なら非力なままで他にどうしようもない。
装ったり誤魔化したり、は通用しない。
それは私にとって唯一の真実だ。
その真実とちゃんと向き合っていたくて、私は弾くのだと思う。
どんなにちっぽけでも、かなわなくても、やっぱり私は信じられるものがある場所にいたい。
12月は芝居と。
2月は絵とピアノと、即興の世界。
頭の中がいっぱいで、とても幸せ。