入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

敷地に勝手にテントを張っていたのだろうさ

当番ノート 第4期

b84d5b4456170e69516d89cd7fcf6bcf

 直面する壁に 三つの梯子が付いて在り
 例えば私は 真中ひとつに位置をとり
 上の盤石な 鉄のひとつに触れて錆を手に先に行くのか
 下の拉げた 鉄のひとつに触れて錆付いた私を歩くのか
 
 
 
僕はまず、自分の手帳を開けてみた。八月と九月のページを。
 
 
白いページの余白に」を書いた時、相方のお父さんの四十九日だった。
一切を無言で。」を書いた時、海に野営に出掛けていた。嬉しいのに、でも、自分に不甲斐なかった。
猛禽ひとつ」を書いた時、帰省し、本家の墓参りの後、喘息の発作に苦しんで何日も動けなかった。
パートナー」を書いた時、出張で函館方面に出向いていた。旅と出張が、いつだって僕は好きだ。
コレカラスムバショ」を書いた時、少し過労で、首から下は蕁麻疹の総動員だった。いまは大丈夫。
はなをわすれて」を書いた時、夜中から森の湖の方に野営に出掛けて、土砂降りの雨を眺め、ひたすらに濡れた。
回帰」を書いた時、幾十人の人の面接を担当し、自身を振り返りつつ、その人にも僕にもある未来を考えつつ。

上記のことに補足やプライベイトなことを付け足せば、もう今回書くことに文字の数は足りて溢れてしまう。なんだか多忙そうで、それなりに楽しんでいるじゃないか、そんな気がしなくもない。草臥れて煙草を吸って、やはり珈琲を飲んで。喜怒したり、哀楽したり。毎日、相当のコミュニケーションを文字と言葉で行い、月に何度も北海道の各地に出張に出て、人に会う。仕事をする。目紛しく時間は過ぎて止まない中で、どうしても僕は人と語らい、笑い、苦悶しながら、言葉にならないことを脳裡に託し、言葉にしてはいけないことを何かに昇華させたい。心臓の近くに大切な記憶を司る生き物の元来的な脳があるのだという。それはきっと”こころのこと”なのだと信ずるのは、実に勝手でおかしなことだろうか。書く時には、心も思考もそこにある。相手とこちらが知りたいこと、伝えたいこと、そういうことの積み重ねが日々の歯車に油を、言葉が潤滑を与えてくれる。だのに僕は、なかなか事前に「書く」ということができない。

いつも、事前に書ければよいのだと思う。用意を大事に整えながら、事前に抜かりのない方策に気分を割り切ってしまえばいい。「場合」と「事」によっては、そうする時もある。「アパートメント」の締め切り、つまり僕の場合は書き上げて公開となる月曜の18:00までに、なんとも割り切れない決着の付かない、悪あがきのようなこともあり、それを楽しんでいるようなこともあり、ギリギリまで仕方がない、そんな二ヶ月だった。「場合」と「事」によっては用意をするが、僕の場合には事前に書くことは、「申し送り」や「書き置く」ことに近しく、最も苦手な「提出」的な用意になってしまう。

当初「アパートメント」の「当番ノート」は、コラムがよいのだろうかナ、或いは記事的側面に心情が注入されているものが良いのかしらと、浅はかな僕はいろいろを思った。僕は結局「ノート」でよいのではあるまいかと感じた。八月と九月の月曜を、勝手にそうしてきた。本来の目指すべき方向や、運営の指針から、また、「アパートメント」の住人の方々、何より読者の方々が、月曜の僕の当番ノートに怪訝を感じられた方がいらっしゃったならば、不躾な男よ、不毛な人よと、ご笑忘いただけないだろうか。
「あの奴は、アパートメントの入居者の風で、敷地に勝手にテントを張っていたのだろうさ」と。
 
もう、今回のこれを書いてしまえば、僕の「当番ノート」は終わりだ。
敷地に勝手に張ったテントを、さあ、畳まなくてはならない。
焚火の残った燻りを冷まして、薪の白くなった燃え殻を大事に
誰もここに無かったように、僕の荷物を纏めなくてはいけないさ。
 
 
実は、今日まで勘違いしていて、九月の月曜は、残り一回あるのだと思っていた。
この思い込みは、いま、僕の手帳を開けた途端に、思い違いになった。

事前の準備ができないのである、場合と事によるのである、もう立ち去るのである。散々こう書いた舌の根も乾かぬうちに告白してしまおう。

「Teardrops」
「紅い陽と同等の赤いトマト」
「手を」
「うみのたかさ」
「偶然ではないこと」

上記のタイトル等、つまりノートを事前に用意、否、想起していた。例え残り一回があるとして、そこにすべての内容を網羅して書けるわけではない。最後に何を書くか、それは、想いの高ぶりや抑制やによって、あらぬ方向へ言葉が行ってしまうかもだけのことかも知れない。

きっと「アパートメント」の今までの住人の方も、今もこれからも住人の方々も、日々の暮らしの中で、活動や表現の躍動の中に、一瞬の中に、例え停滞の最中でさえも、そんなふうに「アパートメント」への「用意」や「想起」をしていらっしゃったのではなかろうか。そういった踏まえというようなことの中に、書くことの即興的とは成り立つばかりではなかろうか。
 
わかった風を書き言うと、喉が渇く。
 
 
アパートメントの敷地の裏の、隅の方にこんな壁があって、こんな逃げ道のような古びた梯子はあるだろうか。

きっと無いと思う。

あるのだとすれば、もちろん逃げ道ではなくて、ややと華やかな、考えや気持ちを尽くされた花壇や小径や、そこに花や小鳥や風や樹や陽や月や、入り口と出口であって、挨拶の往来の中で、住人は去来するのだと思う。 

   
 直面する壁に 三つの梯子が付いて在り
 例えば私は 真中ひとつに位置をとり
 上の盤石な 鉄のひとつに触れて錆を手に先に行くのか
 下の拉げた 鉄のひとつに触れて錆付いた私を歩くのか

  
 
” 人生においてただ一つの思慮とは集中である。ただ一つの悪とは消散である。”

 
  二ヶ月間、毎週月曜だった。
  今年の八月と九月を、僕は忘れないと思う。

  佳央理さん、はるえさん、森山さん。ありがとう。
  運営サイドの方々、お世話になりました。
  ひとりひとりのあなたと、ここでお会いできて僕は嬉しかった。
 
 
  いつかまたどこかでお会いできる機会と一瞬とを
  それを大事にしていたい
 
  蒔山まさかづ

蒔山 まさかづ

蒔山 まさかづ

叩きつくせない音楽と
ゆるすかぎりの野営を愛しながら
北海道在住

Masakazu Chiba f.k.a. Masakadu Makiyama

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る