先日、友愛精神に富む友人から「使ってみたらとてもよかった。みんなで若返ろう!」と高価なアンチエイジニングクリームを大変安く譲っていただきました。
誰かにプレゼントするか自分で使うか迷ったあげく、好奇心を抑えきれずに自分で使ってみました。すると30分後やはりモリモリに蕁麻疹が出てしまったので、使用をあきらめることにいたしました。私の肌は何がなんでもエイジングしたがっており、全力でアンチエイジングを拒否しているのです。
急性蕁麻疹はストレスが原因であることも多いのですが、これは私の無意識のアンチエイジング拒否を反映しているのでしょうか。
(ここまで前置き)
今日は、「おばさんになること」「おばさんであること」について、以前ツイッターでなんとなく『ツァラトストラかく語りき』ちっくな格好良いことを言いたいなと思って、自分で書きながら意味わからないのにテキトーに言ってみたことをまじえ、おばさんの生態とその理由を浅薄に考察してみたいと思います。
オバサンであること、「オバサニティ」とは、限りない自己肯定、鬱への反重力、自己言及の暗い誘惑から軽やかに身をかわし逃走し続け生を謳歌しようとする健全なサバイバル本能、近代的自我への真のアンチテーゼである。(…しかしこれって「スイーツ脳」の定義と同じだな…)。
オバサニティは、女性にとって、自由への片道切符。一度手に入れたら、そのあまりの開放感に、再び「女」や「女の子」には戻れないであろう。
オバサニティの「越境」力の典型的な例として、オバサンは尿意がたえられなければ自由自在に男子便所に入ることができます。なんの理論武装も闘争もデモもせずにこうした身体的な自由をもいとも簡単に勝ち取っていくのです。
年取ってオバサンになったら摂食障害がなおった! パニック障害がなおった! 外反母趾がなおった! いろいろなおった!という人は結構いると思います。
自意識過剰・自己中すぎて自分以外の存在のことを全く気にしている余裕がない時、オバサン度はゼロとなります。(逆だと思っている人は多いと思いますが、違います。気を付けて次の段落を読んでください。) オバサニティと拒食症や醜形恐怖などの心身症や心の病と相容れないのも、そのためです。年齢的に中高年にさしかかっても、まだ自意識過剰系の病に悩まされている人は、オバサンになりきれてないのです。自分がオバサンになることがどうしても受け付けられない場合、「発狂」という手段もあったりなんかして、頭がおかしい中年女性は若い女性にしか似合わないような長ロングヘアだったり少女みたいな格好してたりしますよね。(私もそうなんですがすみません…)
オバサンもスイーツ脳もワタシワタシと我を張ったり自己陶酔しているようで近代的自我という意味では自分になんかにまるで興味がない。だから「私とは何か?」みたいな「私」を巡る近代自我病にもかかりません。彼女たちの関心と対象は外へ外へ、他者へと向かいます。転ぶのを恐れずアクロバティックなローラースケートに挑戦する少年たちの如く自由闊達かつ華麗に自分のことを棚にあげ他者を批判するなど朝飯前です。
オバサンは非文学的な存在です。19世紀のフランス文学でいつも刮目させられるのは、バルザックだのフローベールだのモーパッサンだのムサ苦しいおっさんたちが既婚女性の心理を恐ろしく精緻に描写することで、彼らはおばさまたちのサロンに入り浸って研究していたものと思われますが、彼らが描く既婚女性は正確には「オバサン」手前の女性たち、運悪く近代的自我に目覚めちゃった女性たちで、彼女たちはネチネチ悶々ツラツラと心の機微を手紙に綴りまくる。オバサンではそれはあり得ません。
オバサニティは、女性を捨てることにより、或る種の精神的自由を得る手段であり、「これはあるがままの自分かしら」「本当の自分は」とかいったことは気にせず、コテコテに飾られた理想我だろうとなんだろうとそういう意味も含めた「自然体」の自分自身を無条件に受け入れることを可能にするのです。
だからオバサンはネチネチ文章を書いたりしません。オバサンはおしゃべりです。ここで元研究者っぽくもう一発もっともらしいことをいうと、オバサンはエクリチュール的存在でなくパロール的存在です(エクリチュールってなんだよ、パロールってなんだよというかたはググってください。私もどういうことだか忘れちゃったので)。オバサンの世界においては声の大きいものが勝者です。
おばさんがたまに短い文章を書くことがあっても、
「最近の若い女性の言葉遣いに思う」 (埼玉県主婦52歳)
…といった具合に、他者が対象です。
マッチョな文化圏ほど(たとえばヨーロッパであれば、南下すればするほど)おばさんたちが元気一杯で声も大きくて楽しそうなのは、女を捨てることで満喫できる自由の度合いが大きいからです。オバサンは男女格差社会の格差が大きければ大きいほどそれをバネに自由への大きな跳躍を遂げるので、真の男女平等社会では羽が伸ばせません。だからおばちゃんたちには意外と保守派が多いのも特徴です。
性別が♀で生まれた人間には、クリムトも描くように、
「少女」
「女」
「オバサン-老婆」
…の三態があります。
このうち、もちろん「女」が一番不自由なわけです。
少女の閉じられた世界での「自由」は、少女が「女」になったときいつか壊れる、条件付きの儚き脆き美しいもの。オバサンの自由が「図々しく」みえるのは、それが本当に制約や境界にとらわれない絶対的自由だから、オバサン以外の存在からすると見てて腹立つからです。
こっちは10人待ちでお手洗いの前に並んでいるというのに、おばさんたちが空いた男子トイレにどんどん入っていくのを見て、苦々しく、しかしうらやましく思ったことがない女性はいないでしょう。
しかしこんなルサンチマンを抱えてオバサンたちを横目に必死にアンチエイジングするよりも、いっそ仲間になってしまったほうが楽ではないでしょうか?
一生「女」現役でいるなんて疲れませんか?
そもそも「女」って何?という問いも究明していかなくてはならなくなる。
あなたにはそのエネルギーがありますか?
そのエネルギーだけで疲れて老けてしまいませんか?
というか私、一体何がいいたいんでしょうか?
なぜこんな呼びかけしてるんでしょうか。
そもそも誰に対して?
自分自身に呼びかけているのかもしれません…。
「考察してみます」などと書き始めたのにまた支離滅裂になって虚空に呼びかけはじめてしまった、初老の或る冬の早朝でありました…。