川の写真をよく撮る。ここ数年自宅の尼崎から職場の西宮まで自転車で通っているのだが、その市境に武庫川が流れている。そこを毎日通るので撮る機会が増えた、ということもあるけれど、自転車に乗るようになって自分の体と外界のスケール感が変わってきたことことも関係すると思う。
人力で動くにもかかわらずけっこうな速度を出せる自転車という利器は、自分の体を地べたから乖離させずに長距離を移動できる。電車や自動車では失われてしまう接地の感覚を保ったままで活動範囲を拡大できるのだ。
歩く、自転車に乗る、電車に乗る、飛行機に乗る。移動速度によって世界は伸び縮みする。今まで「歩く」スピードが好きだったけれど、最近はこの自転車の速度から見る世界の縮尺が好きだ。
雨の日は電車で武庫川を渡る。高速で移動すると世界は縮む、とはアインシュタインは言ってなかったか。言ってないですかすみません。
移動速度によって伸び縮みする世界の縮尺の上で、地べたに貼り付いて流れる川は、一種の定規みたいなもんだな、と武庫川の写真を撮りながらいつも思う。いろんな縮尺で地表を移動する生活。川は背骨のようにその世界を支える。あ、僕は一般論は語っていません。あくまで僕が僕の生活圏の中でそう感じている、というだけの小さい話なのであまり真面目に聞かなくていいですよ。
あまり真面目に聞いてはいけない証拠には、さっきその口で言った僕自身が、多分そんなこと信じちゃいないのである。そんな背骨は世界に存在しない。しかし、何かを仮の定点とする、というのは、こういう「持続すること」に価値を置く写真のような手段にはとても有効なことだと思う。
写真を撮ることは、さまざまなものを「見る」ことの一手段であり、「見る」ことそのものの比喩でもあり、また真っ直ぐな視線に絡みついては光路を曲げてしまいがちな自分の「美意識の手垢」を落とすための矯正装置にも成り得る。すべての人に無理強いをするわけではないが、僕はそう考えて写真を撮っている。
多分僕はこれからも写真を撮るだろう。いろんな縮尺でものを見、いろんなものが見えることもあり、間違って手垢に埋もれることもあるかもしれない。
間違っても、定点に戻る。そういう定点(仮)の比喩として、川はなんだかうってつけだ。絶対の座標ではない。ちょっとゆるい定点。
日照れば細り、雨降れば増し、長いスパンで流路も変わる。川面は毎日表情を変え、昨日の水は下流に去るが、それでも川は川のままだ。よくわからなくなったら武庫川でも撮りに行こっかな、みたいな。そういう風に便利に使ってやろうと思う。
とはいうものの、いろんな理屈を考えはするが、実際の話、川の写真を撮っている時は正直なんにも小難しいことは考えていないのである。
身も蓋もない結論を書くならば、まぁ、なんか照れるが、僕は川を眺めるのが好きなのである。それだけのことだ、という気もする。