しあわせのかたちをかんがえていた。
あのひとからみえる しあわせは まるくまるく
ふれるのさえこわかった。
近づいちゃいけないとうめいが、ささるのがこわかった。
けれどなにより憧れるうつくしいかたちであった。
あの人やあの人やあの人は おなじであるのにまるではなかった。
さんかく、しかく、ぐるぐる、
あたしはあたしでどれでもなかった。
けれどだれかには何かにみえているのかもしれない。
そうおもうと、いちばんただしいかたちにならなくちゃいけない気がしていた。
しあわせはそれぞれちがうだろうに、「しあわせ」というふりかかる正義がこわかった。
ただしさなんてどこにもないのに、
しあわせであることはただしくて、
そのただしさへむかうことがただしくて、
そうでないものたちは不正解だ、悪いことだ、と、されてしまうのはどうしてなのだろう。
とうめいは、とうめいで、
えらべないただしさは、つよいものになっておそってくる。
まるがもとめられる世の中なら、まるになるのがただしいとおもっていた。
けれど、なんでもよかったのかもしれない。どんなかたちでも、ほんとうは。
うつくしくなくとも、しあわせでなくとも、あるがままに、あってよかったのかもしれない。
まるいがいのかたちも、
さんかくも、しかくも、ぐるぐるも、うつくしいのかもしれない。ぜんぶあっていいのかもしれない。
「いまみえているものは、ほんとうにそんざいしているの?」
いま、みている白が はたしてあなたにもおなじ白にみえているのか、
だれかのみているせかいを、ずっと、知ることのできないように、
ぜんぶ、なんにも、確信など得ることなどできないまま生きている。
いま、あたしはどんなかたちなのか。
おわるときどんなかたちなのか。
さいごには誇れるようなかたちをもちたい。
正解でなくとも。しあわせでなくとも。