ことばがあるから、誤解されるのでしょうか。
それとも、ことばがあるから、理解できるのでしょうか。
ことばがなかったときのことを考えてみるのですけれど、
赤ん坊のころ、ことばがじぶんの中にはなかったのです、きっと。
それで、まわりにたくさん浮かんでいたり落ちていたりしたことばを拾ってみて、
それで、意味はわからなくたって、言ってみたんです。
何度も何度も言ってみたんです。
わからないのに、わからなくても、言ってみたんです。
そうするうちに、ぼくはことばを使うようになりました。
赤ん坊のころ、ぼくはじぶんで歩くことができなかったのです、きっと。
それで、まわりのいろいろが動いているのに、気付いたとき、
じぶんも同じように動けるのかもわからないけれど、
同じように足をばたばたしてみたり、からだをくじくじしてみたりして、
そうするうちに、ぼくはじぶんの足で歩くようになりました。
なんだか、同じことなんだと思っているのです。
たぶん、これからぼくはじぶんの足を一度も使わずに過ごしたら、歩けなくなります。
たぶん、これからぼくはじぶんのことばを一度も持たずに過ごしたら、話せなくなります。
わからないですけれど、たぶんそうなのだと思うのです。
ことばを発するということは、からだを使うことなのだと思います。
からだを使うから、気付くことがたくさんあるのだと思うのです。
おはなしをします。
おはなしをしているうちに、
ああそうかこういうこと考えてたんだなあぼくは、とか、
そうそう、そういうことが言いたかったんだよぼくは、とか、
そういうふうに気付くことがたくさんあります。
でも、それは、ことばにしなかったら気付かなかったような気もするのです。
ことばにしたから知ることのできたことってたくさんあるような気がします。
もちろん、ことばじゃないほうが知ることのできることだってたくさんあると思うのです。
ことばもからだ、同じことだと思うのです。
知識というものは、からだを通して知ることなんだと思うんです。
使うことで、知っていくことなんだと思うんです。
そうやって生み出されたことばはかたちがあるだろうし、
いろんなかたちがじぶんのからだのなかでことばになっていくのだと思うのです。
こういうことばは、誤解されるのでしょうか。理解されるのでしょうか。
たぶんどちらもなのでしょう。
そいで、ことばじゃなくたって、どちらにもなるのでしょう。
なにが正しいか、ということが、決まっている訳ではなさそうです。
だから、ずっと考えていきたいし、
わからないうちからでも、ことばにしたいことだって、
たくさんあるように思うのです。