声でこころが震えることがあります。
誰にでも好きな音楽があると思います。
ぼくも音楽が好きです。いろんな音楽が好きです。
うたはことばになっていて、ことばは意味を持っていて、
それがとてもいい塩梅に旋律に絡んでいくことで、
こころがぐっとせかいと同化させられるようなくらい、
すばらしいものになることもしばしばあります。
そのなかで、声、だけで、すべてを語り尽くしてしまったような、
そんな音楽に出会うことが、たまにあります。
ことばの意味の前に、声そのものの成分がもはや意味になっているというか、
そういう音楽に出会ったときは、
ほんとに一瞬で涙があふれてきます。
迂闊にCD屋さんで試聴してしまっては大変な目にあいます。
声はもちろん音です。
その音に、感情の成分を含ませることで、声になりことばになり、
ひとに何かを伝えるという意志になるようにも思います。
だけど、たぶん、音そのものには意図しなくても
ほんとはすでに感情が含まっているのかもしれません。
木々のこすれる音すらも、ささやきのように思いますし、
風のたよりを聴く耳を私たちは持っていますし。
数年前に、山に登りました。
せっせせっせと頂上を目指しているときに聴こえているのは、
じぶんの足が踏む葉っぱの音や、鳥の鳴き声。いろんな音が鳴っていて、
それがごくありふれていて意識すらしない状態で、せっせと登りました。
そして、頂上にたどり着きました。
すると、今まで聴いていたせかいのいろいろな音が、ぴたりとやんだのです。
震えているのはじぶんのこころだけのような。
からだがそのまま空気に吸い取られてしまうんじゃないかと思うくらいの
せかいとの同化感。それは、恐怖でした。
無音の音に包まれてしまったときの、じぶんの存在のあやふやさ。
なにか、べつのものになってしまいそうで怖くて仕方がなくて、声もでなくて、
一生懸命足を踏んで土をならしてました。
たぶん、普段の暮らしでは音に包まれているから、
からだは拡散せずに済んでいるのじゃないかとも思います。
それくらい当然のノイズまみれな生活の中で、
こころを震わせる声。それは、すべての雑音を追い抜かして、
肝心なところにぐっと立ち塞がって、一瞬、すべてを許すかのように、
ぎゅっとしてくれます。
ほんとうにすごい声は、その本人が目の前にいなくても、
すぐそばに寄り添ってくれているくらいの存在感。
大切なことは小さな声で話されると言います。
小さな声でも大切なことは、
こころの一番近いところまですぐに駆けつけてくれます。
たくさんの声があるから、ぼくはぼくのかたちを持っているのだろうし、
たくさんの声のなかにぼくの声もきっとあるから、
せかいはせかいのかたちを持っているのだろうし。
そういうことを、いま、ある女性の声を聴いていたら思ったのでした。