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2F/当番ノート

Crescendo 〜 決壊

当番ノート 第15期

みいろあげは

それから一週間ほどの間、ぼくは彼と連絡を取ることを一切止めた。不機嫌な奥さんへの恐怖に翻弄される彼の姿を目の当たりにした後、”徹底的な習慣化してしまった奥さんの支配から解放されるために立ち向かうだけの肝っ玉、ガッツを彼は持ってるだろうか?”と何度も自問した。自分の真っ赤に煮えたぎった頭を冷やすためにも、彼から完全に離れた時間と空間がぼくには必要だった。その間にも彼からは一日に何通ものメールや留守番電話が入っていたけど、ぼくは本当に怒っていたから声も聞きたくなかったし、顔も思い出したくなかった。

後になって、彼は血眼になってぼくの事を探しまわっていた、と教えてくれた。Googleやインターネットでぼくの住所やら連絡先を調べて結局見つけたのは、日本の英字新聞でフィーチャーされたぼくの写真付きのインタビュー記事だけ。彼はぼくを失っている、又は失ったと肝を冷やしていたらしい。奥さんからの締め付けもあの日以降、更に厳しくなってどこへも彼女の許可なしでは行けない状態に陥ったという。ぼく達のつくる二人の世界は月影につくる刹那な蛍の光の様にあまりに頼りな気に感じられた。

2004年の暮れの再び訪れたクリスマス休暇に奥さんとマンハッタンに戻る彼。一歩足をニューヨークへ奥さんと踏み入れる途端、メールも電話も無くなり、ぼくのレーダーからその姿を一切消し去ってしまう彼にはもう一つの絶対に守りたい、ぼくを介入さない世界があるのだと言う事を痛いほどに感じた。ぼくと出会う前に必死に築いた彼にとってのもう一つの世界がそこにはあるのだろう。ストレートの男女のカップルとして社会の規範にきれいに治まり、マイノリティでは決して味わえない持てる者だけが享受出来る居心地の良さがそこにはあったのだと思う。

その翌年の2005年、全てが目まぐるしく動きつつあった。ぼくにはパリへの赴任の話しが会社から出ていて、ぼくが学生時代にヘミングウェイの「動く祝祭/Movable Feast」 を読んで以来、パリはぼくがずっと住んでみたかった街だったからそれは一つの夢が叶うかもしれない、という時期だった。

ある日彼が、「シドニーに行く話しが出ている。ぼくが行った後、ついて来てくれるか?」とアメリカンクラブでジムに行った帰りに座った公園のベンチで話しを始めた。ぼくには既に覚悟は出来ていた。パリにはいつでも行く事は出来る。シドニーに行く事はあらゆる意味で新しい環境の中で、まっさらな環境で二人の生活をスタートさせる絶好のチャンスではないか、と嬉しくもあった。

そうと決まると彼がシドニーに飛び立つまでの日々は五月の真っ青な空を切り取って飛び去るツバメ達の様にためらいもなく、あっという間に過ぎ去っていった。

彼がシドニーに家探しのために飛び立つ日の午後、ぼく達は銀座にあるコーヒーショップで暫く会えなくなる前の一時のランデブーを楽しんでいた。空は曇っていたけれども、ぼくの心はこれからの新たな旅立ちを信じて晴れ晴れとしていた。成田に向かう時間が迫る頃、彼が席を立つ直前に今回の家探しには奥さんもついて来る、と唐突に切り出してきた。それまでぼくに、どういう所に住みたいか、などと二人のシドニーでの生活について話しを膨らませていて、彼は「これから二人の生活を念頭に入れた結果のシドニー行き」、と言っていたから今回の家探しには彼女は同行しないもの、と思い込んでいた。

混乱と憤りの中でぼくはまるで周囲に誰もいないかの様に、感情的になって声を押さえきれずにいた。今思えば、このパターンはこれから先も何度も繰り返されるほんの序曲みたいなものだったのだけど、奥さんとぼくとの狭間に立って悪人になりたくない彼の曖昧な態度のために、ぼくはこれから多くを失うことになる。失ったものに未練はないけれどもそれは癒えるのにとても時間のかかる傷となってぼくの心の深い所に影を落とした。彼と一緒になることを選んだぼくの払う代償は彼に比べてとても大きく思えた。それと同時に、人を理解する事、人の立場に立って物事を見て感じる、という共感(empathy)する事の大切さが自分がたくさんのものを失うというその痛みの中で、混乱の過程で分かる様にもなった。

この後、彼と一緒になるためぼくは会社を辞め、彼の奥さんからは罵られ、親とは勘当同然の形で別れ、慣れ親しんだ家、友人達、国を離れて誰一人知り合いのいない未知の土地シドニー、ダウンアンダーに彼の後を追って飛び立つ事になる。

彼と奥さんがシドニーで家探しをして二週間ほど経って新居での生活を始めたある日の夜、彼から「今晩、彼女に僕と君との関係の事を話した。」というメールが唐突に送られて来た。ぼくの心臓は止まる思いだった。そこには、彼女にぼくの存在と、彼がゲイであると言う事を告白した、とあった。彼がゲイである事を奥さんに告白したことには感嘆したのだけど、ぼくの存在をその脈絡で彼女に知られるのには困惑してしまった。何かとても嫌な予感が胸の中を紫色の濃い煙が充満するかの様に広がって早まる鼓動が胸を大きく波打たせるのが分かった。

その夜、ぼくは横浜に住む兄のアパートに遊びに来ていた。そしてその晩、ちょっと湿った畳の上に置かれたぼくの携帯が鳴り、暗闇に光る表示画面には彼の名前が出ていた。携帯を手にとって耳にあてると、そこには初めて聴く声。だけど即座に誰か、ということは分かった。

I am his wife…. 電話の向こうの声がそう発音していた。間隔をあけて次に再び訪れるぼくの心臓の鼓動、呼吸までの時間が永久の様に感じられた。彼女の英語はとても訛りが強く、そして単純な言い回ししか使わない英語だったから、それまで彼がぼくに話していた女性像とのギャップを埋めるのにも時間がかかった。人はだれでも動物の、野性の本能として自分を実物以上に大きく見せるために虚勢をはるものだ。特に、それが恋をかけた戦さの場合など、雄の鳥達は目立つ羽飾りの色を一層色艶やかなものにし、羽毛を膨らませて実物大の自分以上に身体を大きく見せて印象付けようとする。鹿は角を大きく膨らませ、人は自分の持ち物や着物、社会的地位で恋の駆け引きを有利にしようと相手の気をひき、交際相手を自分のものにしようとする。これは動物界の駆け引きの一部なのだ。彼はぼくに、彼の奥さんはマンハッタンで煌びやかな日本人女性として生きて、英語もとても達者で大変に洗練された女性だ、とことあるごとにぼくに言っていた。

でもその時、ぼくが初めて聞く生の彼女の声、話す英語のフレーズとその単語は単純で、大変に分かりにくい英語だった。次第にぼくは彼女の話しをゆっくりと聴く事ができるほどの落ち着きを取り戻していた。次から次へと浴びせられる罵倒に近い差別用語でぼくをなじる彼女の声を電話口でひたすら聴き続ける。
「エイズは神様からゲイに、世の中で一番モラルがなくって無責任なクズに与えられた当然の罰。」「あなた達ゲイの人達が世の中を腐ったものにしていく。」「私の夫はゲイというあなたの様な腐った変態にたぶらかされただけだから、あなたがいなくなれば簡単に問題は解決する。」などど次から次へと言われる。彼女はアメリカで看護婦という仕事をしていてエイズがどういう病気か、ということを医学的にも、科学的にも普通の人よりももっと詳しく知っているはずなのに、この言葉には驚いた。

ぼくが、お互い日本人なのだから日本語で話しましょう、と言ったのだけれども彼女は最後まで単純な表現しか出来ない英語での会話に固執した。携帯をみると既に2時間以上の通話時間が記されていた。一方的に電話が切られて呆然として障子を開けると、そこには兄の姿があった。

兄は「大変だけど、頑張れや。」とだけ、ぽつりとぼくに言った。兄にはもう、全て分かっているらしかった。

シドニーにいる彼に先ほど起きた一連の出来事を知らせ、彼女が彼の携帯を使ってぼくに電話をかけてきた事、彼女がぼくのフルネームを知っていた事、などをメールに書いて送り、その晩は布団に入った。目を閉じるとまだ彼女のとても訛りの強い英語の発音と非難の言葉の数々が頭の中を繰り返し繰り返し木霊した。心の中では「どうして彼はぼくの事を守ってくれなかったのだろう。どうしてぼくの存在をこういう形で、ぼくに相談無しで知らせたのだろう。」と繰り返し考えた。

その夜は一睡も出来なかった。

一週間ほど経ったある日、深夜に仕事から帰って来ていつもの通り自宅のポストの郵便物に目を通しているとその中に一際大きなEMSで送られて来た封筒があった。不思議に思って宛名に目をやると、それはシドニーにいる彼の奥さんからの郵便物であった。

怖かった。

「どうして彼女がぼくの正確な居場所、住所、そしてフルネーム、電話番号まで知っているのか」という疑問が否応無しに頭の中を駆け抜ける。すぐに封筒を開けると、そこには彼女の卒業したアメリカの看護学校で売られている学校の名前入りのカードがあった。もう既にそこから彼女の心理ゲームが始まっていた。「あなたは部外者。私は彼の大学病院を卒業してあなたよりももっと彼に近い世界、あなたの立ち入る事の出来ない医学界のエリート社会にいるのよ。」というメッセージがそこかしらに感じられた。カードには「酔いが回ってしまってて失礼な事をしてしまってごめんなさいね。」という様な事が書かれていた。多分、この時彼女は既に探偵を雇って全てぼくの事を調べ上げていたのだろう。

この時になって初めて、ぼくは彼女に遠慮なく、罪の意識なく宣誓布告をする心構えが出来た。もしこの時、この心理ゲームでぼくの上に立とう、とする意図で出された郵便物を彼女がぼくの自宅に送って来なければ、ぼくは彼女に戦いを挑まなかったかもしれない。

彼は、「彼女はそんなことをする女性ではない。彼女は携帯の使い方さへ分からないのだからね。」と彼女を弁護した。「えっ?EMSで40ドルもかけてカードを送って来たって。贅沢な彼女らしいね。EMSね〜。」とするりするりと真剣になる事を避けて 他人事の蚊帳の外にいるかの様に振る舞おうとする。ぼくが、「彼女、とてもアメリカに20年近くいた人の英語の発音と思えないね。」と言うと彼は黙った。悪者に思われる事、人から悪く言われる事、泥にまみれる事を本能的に避けようとする彼の本質をまた垣間見た様な気がした。

彼女は農家を営む家族の末っ子として生まれて、大人になってからマンハッタンに出て来てから初めて見た煌びやかな上流社会の世界を垣間みてその虜になった。彼はアメリカ南部のブルーブラッドと言われるアメリカ建国時から名家としてその名を知られた血筋の長男として生まれた。彼の祖父の住む家などはまるで映画「風と共に去りぬ」の舞台に出て来る様な大きく重厚な家だった。家族の頭文字のイニシャルが刻まれた銀食器達、美術館に収められる様な歴史的価値のあるたくさんの家具、食器、絵画などが至る所に飾られていた。多分、彼女が雑誌や映画の中でしか見聞きしたことのなかったに違いない夢の様な世界を彼は背景として持っていたのだろう。

彼女が過去の自分のルーツを葬り去り、全く違うパーソナリティで過去の自分の肖像画を塗り替え、架空の姿で生きる事を現実にする格好の環境を彼は持っていたのだと思う。彼女は彼の医者としての、彼の家族の家柄や人脈をフルに活用して、アメリカの小さなエリート日本人社会で君臨したかったのだろう。京都の大きな神宮での彼らの結婚式の写真を見ると、そこには厳かな寝殿での儀式の雰囲気に完全に圧倒されてしまっている袴姿の滑稽なまだあどけさ残るアメリカ人男性と、白無垢に艶やかな紅を口にさし笑顔を満面に浮かべてとても幸せそうな彼女の姿がある。これはかつて田舎の片隅から一人出て来た彼女にとって日本での凱旋セレモニーの様なものだったのだろう。

当時、彼はインターンを終えて医者に成り立ての30代前半、彼女はそれまで独身で40代中頃で彼と初婚。この時点で既に二人の人生の経験値の間にはかなりの隔たりがあったのだと思う。結婚後は、彼女が日常での人との付き合いの全てを取り仕切り、家柄、職業、社会的地位の振るいにかけそれぞれに社交ランク付けをしていった。そこには彼女の上流階級への病的に近い執着心があった。彼女の社会的エリートを嗅ぎ分ける能力には驚くべき生まれつきの鋭さと正確さがあった。

彼女のお茶、生け花、お琴などへの傾倒ぶりにもただならぬものがあり、その組織の中で熾烈な序列争いを繰り広げて日本人の奥様方の中で権力者の様になっていた。そこには密で残酷な日本人同士の間でのランク付けもあったりした。

ぼくは既に彼と人生を伴に生きよう、と心に決めていた。しかしそれにも増して、ぼくは彼女の様な人が嫌いだった。ぼくは騙されない、と思った。彼女の上流階級のアメリカ人の友人達には、いかにもアメリカ人が好みそうな「私は何もない日本の片田舎に産まれてゼロから出発して一人でアメリカに出て来てきて成功した」というアメリカンドリームバージョンを語り、アメリカに住む日本の友人達には「私は京都出身の名の知れた家柄の出で、夫は医者をしている同じく名家出身のアメリカ人」のセレブバージョンを巧みに使い分ける。そういうのがとても嫌だった。そして彼女は結婚する前、彼が同棲していた男性の事も知っていて、彼がゲイであることも知っていて結婚したのだった。

ぼくがEMSで送られて来た彼女からのカードを受け取ってから数日後、彼女はオーストラリアからアメリカへと戻った。週日はマンハッタンにあるアパート、週末は郊外にある広大な敷地に立つカントリーハウスで過ごす、という生活スタイルが二人にはあった。

これからどうなるのだろうか、という不安はなかった。ぼくには不安よりも「これから自分の家族、家庭が持ちたい。」という希望のさざ波が胸の中を音を立てながら広がる様な期待感の方が大きかった。ぼくは人生の中でいつも自分の家族、家庭が作りたかったのだと思う。キャリアよりも、名声よりも、何よりも自分達が築く家庭を持ちたかった。同性の相手で国籍も人種も異なる彼と家庭を一緒に築くことに対してはなんの躊躇もなかった。間違った場所に捕われた自分を解放させて自由になるためにも、新しい一歩を踏み出すことは彼自身がぼくのためだけでなく、自分のためにしなければならないことなのだ、という思いもあった。ぼくとの関係以前に、彼は自分自身のためにも離婚という選択を取らなければ前に進めないのだ。

彼女がオーストラリアを去った後、ぼくはこれからの事を二人で話し合うためシドニーに数日間滞在した。生まれて初めて訪れるシドニーは真っ平らでニュアンスの入る余地を許さない様な、そんなくっきりとした輪郭をもった街だった。まるで50年代の古き良きアメリカの雰囲気を変える事なく、テクノロジーだけを最新モードにアップデートしたような、そんなシールドに守られた様な時間が止まった感じのする所だと思った。親には話さずに行ったシドニーだったのだけれども、東京へ戻って来るとカンカンに怒る義理の父と母がいた。ぼくは彼らから離れて自分の世界を求めて飛び立ち始めていたのだけど、彼らにとってはそれは背徳行為だったのだと思う。黙ってぼくを見守る事の出来ない彼らだったから、ぼくが黙って何かをしでかした事は彼らへの裏切り行為、と受け取ったのだと思う。そしてこの事がきっかけで、皮肉まじりにぼくに当てこすりをする母からの小言を聞く度、彼らが実はかなり正確にぼくと彼の間で起っているかを知っているという事実も感じられた。

秋も深まったある日、彼が出張で東京へやって来た。彼の滞在先のホテルオークラには何度も行った事があるものの、その日はこれから起る全ての事への不安に二人とも口数少なく、緊張のためか何度も咳払いをして落ち着かない。外は曇りがちで今にも雨の降りそうな、灰色に満ちた週末の日だった。義父と母には、既に電話でこれから二人で訪問する事は伝えてあった。受話器を通した暖かみが全く抜け落ちた声。そこには刺々しい辛辣さのみがあった。心理戦は既に始まっていた。ホテルから両親の自宅までかなりの距離を、二人で時間をかけてゆっくりと歩いて家に向かう。長い道のり、長い時間だった。頬に受ける冷たい風と滲む汗が服にしみ込んで暑いのか寒いのか分からなくなる様な、そんな感じがした。

出会った時と同じトレンチコートに身を包む彼と玄関先で数秒見つめ合い、ドアのベルを鳴らした。

ドアを開けて出て来た母は何故かその時、笑顔を浮かべていた様に思う。多分、以前偶然にぼくが彼といて蝶々の様に嬉しそうに彼の周りを飛び回っているところを見ていたからだろうか。ぼくと彼が二人並んで玄関に立つ姿をみて、何か感じる所があったからかもしれない。

居間でお茶を出されるものの、辺りを取り巻く空気があまりに重く今にも音をたてて崩れ去りそうな緊張感のため目の前にあるお茶の緑の色だけが異常に色鮮やかに感じられた。彼が自己紹介をするや否や、崩壊するダムが一気に的の中心めがけ突進するかの様に、義理の父が顔を真っ赤にさせて唾気を飛ばしながらぼく達を罵倒し始める。始めのうちはアメリカ人らしく理路整然と主義主張を述べていた彼だったけど、義父から発せられる堰きを切ったかの様な怒りと毒に満ちた感情の火の玉に当てられ、彼の顔から血の気がどんどんと失せて行くのが分かる。
義父はぼくが彼に知られたくなかった、または今まで彼の知る必要のなかった事柄の暴露を次第に何かに取り憑かれた様にし始め、事態の思わぬ進展にぼくも立ちすくむばかりだった。

誰でも好きな人の前では一生懸命に背伸びして、身の丈以上の自分を見せようとするのは野生動物のオス達がメスを巡って恋の鞘当てをする時の様に、人間でも同じ事である。相手の好きそうな服を無意識的に選んで会いに出かたり、ちょっと高めのレストランでご馳走して印象づけようとしたり、一生懸命に相手の気をひこうと頑張る。ぼくも一生懸命頑張ってきたのだ。品のいい家庭のおぼっちゃま育ちの彼は、荒々しいむき出しの生の感情に曝される事に慣れてない、ましてや初対面のぼくの義父にそんな事を言われ、彼はまるで熱風ガスの渦巻く火星に一人ポツンと宇宙船に取り残され途方に暮れた宇宙飛行士の様な顔をしていた。母の顔は、義父の予想もつかぬ暴走に度肝を抜かれた表情で、まるで自分の恥部を初対面の人に訳もなく公表されたかの様な、そんな唖然とした顔でどうしたら良いのか分からない様子でただただおろおろするばかりだった様な気がする。最悪の展開だった。

数時間前に玄関のドアのベルを鳴らす前までは結ばれていた心と心の紐が、玄関を出る頃には水面を漂う水草の様に頼りなげに綻びているのが分かった。言葉なく駅に向かって歩く二人。彼の目の中には以前と同じ姿のぼくが写っているのか、それさへも分からなかった。分かっている事は、今のぼくは自分を包んでいた服も靴もはぎ取られて自分を着飾っていたもの全てを引き剥がされた後の様な、そんな虚脱感と粉々に散らばった自尊心をかろうじて引きずって歩いている、という事だけだった。好きな人に一番見られたくない、見せたくない姿を公開刑の様にさらされてしまった後のショック状態はある意味、これから先、親との絶縁状態に突入することよりも辛かった。

駅にたどり着く前にそこにはモールがあった。日曜の暗くなり始めた夕方のモールは家族連れで賑わい、皆が楽しそうに見えた。どちからともなくスターバックスでコーヒーを頼み店内のソファーに深く腰を下ろす。彼の顔色は血の気を失って青白い。何の言葉を交わす気力も見つからない。

彼が最初の言葉を呟く。

「ぼくは明日の朝の飛行機でニューヨークに帰る。」 言葉のニュアンスから僕抜きで、と言う事は明らかだった。彼は、こんな目に会わされたのだから当然だろう、という顔をしている。

その言葉を聴き、そして彼のその表情を見ているうち考えるよりも先にぼくの口が開く。

「もしここで明日一人帰る事を選んだら、もう二度とは会う事はないから。ぼくにはもう二度と会えないからね。」

ぼくにはもう、失うものは何もない様な気がした。そして身ぐるみを全てはがされて何も自分を守るものがない中でかろうじて自分の威厳を保てるとしたらそれは未練なく乞うことなく、相手にすがらないことだと思った。伏し目がちで瞳の色が薄くなった彼を真っ正面から見ながら、これが彼との今生の別れかもしれない、と心を引き締めた。

ものすごく静かな時間が過ぎた後、ポツリと彼が言う。「やっぱり帰るのはやめる。」

ぼくはゲイとしてこれから彼と一緒になって、世間で、または社会の中でどれだけ大変な棘に満ちた路を歩かなければならない覚悟がいる事か、この時までには分かっていた。だからこの位の事でびっくりしてしまって逃げ出してしまったのなら、到底二人で家族を、人生を築いていくことはできないだろう、という気持ちもあった。もし彼がここで尻尾を巻いて元いた安全地帯に逃込んでしまったとしたらそれまでのことだ。でも、ここでもし彼がぼくといる事を選んだら、彼はこれから先もぼくの側を離れないし、ぼくも彼を決して見捨てないだろう。

ぼくの両親との最悪な初対面だったけれども、この時、奇麗ごとだけでなく泥にまみれてもそれでももがきながら互いの手を探り当てて岸へ向かって進んで行く、そんなパートナーとしての決意式でもあった。

彼はその数日後に一足先にシドニーへと戻って行った。

ぼくがシドニーに向かう前日の夜、ぼくは両親の家で最後のご飯を食べていた。気まずいささくれだった様な空気の中、母が、「考え直しなさい。あなたはゲイじゃないんだから。普通の男性なんだから。彼にそそのかされてそういう関係になってるだけど、本当は女の人とも出来るのだから。」と確固とした口調でいう。

うおぉおおおおおおおおおおぉ〜ぉっ

自分を未だにコントロールしようとしている母に対する怒りからなのか、本当の自分を理解してもらえない哀しみからなのか、突然、熊の雄叫びの様な怒号が静かな夜の住宅街を劈く。

驚きのあまり両手を後ろにつき、周章狼狽の様子、驚愕の表情で目をぱちくりとしている母。

ぼくは胸の奥から目へ、口へ、鼻先へと次から次へと昇ってくる押さえきれない怒りと哀しみのため完全に自分をコントロールできなくなっていた。次から次へと濁流の様に流れる涙。目は何も見えるものを捉えず、もはや声を止める事もできない。ぼくの最後の砦、必死に押さえていた心のダムが欠壊した瞬間だった。そしてぼくから両親への決別の儀式でもあったのだと思う。

ぼくは分厚い手紙を母に残して行った。ゲイである事を受け入れて彼と人生を伴に歩くと決めるまでの紆余曲折と葛藤、ゲイのパートナーを、心許し将来を伴に歩いていこうと思えるほどの情熱と信頼を託すことのできるパートナーを見つける事の難しさ、国籍や話す言葉は違っていても将来へ求めるものが一致しているぼく達の価値観と互いへの思いの強さについて母に知っていて欲しかった。例え親子の縁がすり切れそうになって離ればなれになったとしても。

朝を迎えて、ぼくは仕事も家族と友人も日本で築いて来た全てのものを後にして、南十字星目指して彼の待つシドニーへとただ一人旅立った。本当に独りぼっちの孤独な旅立ちだった。〜

雨後来 祝祭

雨後来 祝祭

ゲイである自分に早くから覚醒してどこにも居場所がなかった様な10代、20代の頃は他人に、世間に受け入れられることばかりを考えていた林檎磨き(=ごますり/他人迎合)に忙しかった自分、30代に入ってやっと少しづつ人間らしく、そして40代に入ってやっと自分と向き合って等身大の自分を見る事に居心地の悪さがなくなってきた今日この頃。

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