入居者名・記事名・タグで
検索できます。

3F/長期滞在者&more

暁の人類学(9): いずれどこかの異郷の地で

長期滞在者

もう何度目かもわからない睡眠を終え、私は目を覚まします。しかし、そこは、見慣れたいつもの場所ではありません。窓の外からは犬と猿の吠える声がして、リアカーから溢れるばかりに積まれた豆や果物を売る物売りの口上がそれに重なる。身体は鈍く反応し、重心はちぐはぐで、バサバサ煩い巨大な扇風機が、私のことなどおかまいないしに部屋にたまった熱風をかき混ぜている。そのようにして、異郷の地で朝が始まります。

いまだ朦朧とした頭と身体を動かして、私はパスポートと財布に入った現地の貨幣を確認します。パスポートと通貨。私がここにいてよいことを最終的に保証してくれる、ただの紙と言葉の集まりが、クールにこちらを睨みつけてくる。勘弁してくれよ!と思います。いや、状況は母国にいても変わりません。国籍と財産を剥奪されたら難民になるしかない。そんなシンプルな条件を直視することは本当に難しいから、私たちはそれが自分に与えられた当然の資格だと思い込んでいる。国籍と紙幣とそれに支えられた諸々を自分たちと同一視して、「やっぱ日本て良いよね」とか言います。勘弁してくれよ!と思います。隣の部屋から聞こえてくるのは、オランダからきた体の大きな若者たちのけたたましい笑い声。

眠気ざましに外へ出た私は、動き出した人々と土埃と異臭に囲まれながら掘っ建て小屋の屋台に辿りつき、素焼きの土器に入った熱々のホットティーを20円ほどで購入します。「物価が安い」わけではありません。ここで20円に相当する報酬を得るために行われる仕事は、日本で200円を得るためになされる仕事と対して変わらないのだから。ただ「円が強い」という、未だによくわからない理由によって、私は格安のホットティーを買っている。ここは茶葉の一大輸出国で、都市部には高級茶葉を扱うお洒落なセレクトショップもあります。その店で実家にお土産を買おうとした私は、手に取る茶葉の品質が実家にあった茶葉よりも明らかに劣ることに気づきます。当然ですよね。ここにあるのは、世界中の家庭に届けられる高級茶葉にはなれなかったものたちなのですから。そのことに気づきもせず、特産品をお土産にしようと私はお洒落なお店を訪れたわけです。勘弁してくれよ!と思います。

世界に飛び出せなかった茶葉たちを大量の砂糖と牛乳と丁子と生姜で煮込んだホットティーにちびちび口をつけながら、私は想います。ここに来るたびに私を迎えてくれる同世代の友人たちのことを。生来の高い身分をもてあましながら政治的啓蒙に満ちた映像会社を立ち上げたあいつについて。せっかく俺が持参したお土産の日本酒を地元の政治家への贈り物にすり替えやがった愛すべきビール腹のあいつについて。スカイプやメッセンジャーで最近の出来事や悩みや感動を届けてくれる、変わらず親密でありながら、ここに再び馴染み始めた私にはどこか理解できない奇妙な顔を見せつつある母国の友人たちについて。

いずれ私たちの大地は揺れている。そして、私たちの大地は彼らの大地ではない、にも関わらず、どこかでつながっている。私が立つ大地もまた、あなたが立つ大地と全く同じではない。でも、どこかでつながっている。つながってしまっている。だから、いいじゃないですか(笑)。揺れのなかで会いましょう。半端なことを言いやがったら刺しまっせ。コトバで、観念で。大地の不動を偽装する諸々に一発入れるためだけに鍛えてきた粗末な武器を携えて、私はあなたを迎えます。ぷるぷる震えて、奇妙な笑顔を湛えながら、「こんにちわ」と。お会いしましょう、いずれどこかの異郷の地で。

rakesh7

kuboakinori

kuboakinori

文化人類学者、たぶん

近刊『ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015)

Reviewed by
朝弘 佳央理

アイデンティティ、を辞書でひくと「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」と書かれています。
それ自身が、それとして存在すること。
けれどよく、自身を自分自身以外の場所やもの、ひとに帰属させる、といった意識の中で使われていることが多いような気がします。

「わたし」は、触れる世界によって絶えず変化するし動いてゆける。
もしその根に「わたし」以外のものをがっちりと抱き込んでいたら身動きが取りづらいのかもしれないなあ、という風に思います。

--- 

『つみきのいえ』というアニメがあります。
その世界は年々海の水かさが増えているのか、ひとびとは家のうえに家を建て増して、やっと水上につきだした屋根の下で生活をしている。
ある時おじいさんがふとしたものを床下に落として、それを探すために水面下に潜ってゆくのです。
潜ればもぐるほど、過去の家がそこには現れてくる。
深く潜ってゆくことで、おじいさんは昔の記憶を辿ってゆくことになる、というお話です。
時間というものは実際は過ぎ去って消えてゆくものなのに、そこには時間が止まったまま存在する。しかも「潜ってゆく」という行為が記憶の旅と重ねられていることも感覚的に非常に面白いアニメでした。
私にとって印象的だったのは、そのそれぞれの家が、ひとしく海水に浸かっている、というところでした。
過去から現在までの記憶を宿した家(つまり、これは人間個人とみなすことができるかもしれない)それぞれが、個々で建っている(立っている)。物理的にはそれは独立していて触れ合っていないけれど、海を共有している。
自分を潜ってゆくことの延長で、その海は、ほかの誰かに通じているかもしれない。
…「心は通じている」というようなことじゃなくて、この考える生物にとっての普遍、を考える時に灯りを照らしてくれたような気がしたアニメでした。


久保さんのコラムの紹介をするべきところを、アニメの紹介をしてしまった。
けれど、人間の意識の黎明のようなこととも、私の中では繋がるお話であったので。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る