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暁の人類学(11): 物語と数値

長期滞在者

 私は焦っています。大学時代の友人と久しぶりにお酒を飲むために乗り込んだ夕方の満員電車で、狭いスペースのなか苦労してスマートフォンを取りだし、待ち合わせ駅周辺の飲食店を調べます。平行して友人とチャットのやりとり、どんなジャンルの店が良いか少し聞いて、後は自分の好みで決める。そのはずが、お店情報の下についた星の数が気になります。

「ランキングは低いけど3.4だからいいか」、「いや、口コミを読むと店員の対応がひどいらしい」、「でも、このコメントは少し極端かも」などと悩みはじめる。どんなタイミングでどんな人とそのお店にいったのか、どんなものを味わい、どんな想いをして店を後にしたのか、様々な物語が綴られる口コミ欄。その想いを各投稿者が数値に変え、採点の平均が星の数で表される。示される物語と数値のあいだで私は逡巡します。正解はよく分かりません。友人の好み、自分の体調、今日の天気、昨日食べたもの。漠然としたそれらの要素を物語と数値の間に入れ込んでなんとか候補を絞り込み、「こんな店でどう?」とリンクを張って友人にメッセージを送ります。まぁ久しぶりだし、楽しく酒が飲めればいいな、と思いながら。

いつからか、私たちの暮らしには、こうしたタイプの数が溢れるようになりました。書籍販売サイトのカスタマーレビューの点数、レシピ投稿サイトのランキング、SNSの「いいね」の数。無数にある選択肢のなかで何がよいと「みんな」が思っているのかを教えてくれる数です。もちろん、標準化された数値だけで何がよいかは分かりません。本を買う、料理を作る、旅行に行く。状況により個人により、固有の想いを伴うはずの経験をすっかり数値に還元することはできない。だからこそ、それらの経験は物語としてまとめられ、数値の横に配置されます。平均点が低くても熱い想いが込められたレビューがあり、平均点が高くても何らかの偏りを感じるコメントもある。数ある選択肢の中から何かを選びとることは、自らの身体をチューニングしながら誰かの物語に飛び込むことでもあります。共感することもあれば、否定したくなる時もある。新しい経験に身を躍らせることもあれば、拭いがたい違和感に苛まれることもあります。

数値という標準化された媒体を通じて現れる「みんな」は、私をその一部として含むような確固たる全体ではありません。それぞれに固有の想いをもち身体をもち感情をもった自由な行為体が、だからこそ標準化された数値によってつながれていき、数値を参照することを促されていく。数値の参照を拒否し「みんな」から外れていく身振りもまた「イノベーター」や「ぼっち」としてマーキングされ、新たな数値と物語の導入を促していく。

とはいえ、高評価と低評価が混在するレビュー欄に見られるように、数値によって接続された「みんな」は、それがなければ表面化しないような激しい見解の齟齬を孕んでいます。数値がつなぐ異なる視点、併存する物語が隠し持つ激しい対立、異なる物語を支える互いに異質な身体と感情。激しく動きつづける「みんな」は、私の一部に含みこまれます。平均点を参照し、口コミを読み、自らの経験を数値や物語に置き換えて発信することを通じて。私としてまとまっているはずのもの、その裂開として「みんな」が現れる。素敵な出会いがあるかもしれない、避けがたい袋小路に嵌まるかもしれない。「みんな」は私の裂開であるとして、私もまた「みんな」の裂開である。そのようにして私は「みんな」と付きあっています。限りある時間のなかで焦りながら、物語と数値の狭間に身体を挟みこむようにして。

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kuboakinori

kuboakinori

文化人類学者、たぶん

近刊『ロボットの人類学―20世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015)

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