前回のボトルに続き今回は、同じ面白さを感じている、Bob Dylanの楽曲について書いてみます。
それまでアコースティックギターで純粋なフォーク・ミュージックを歌っていたBob Dylanが、初めてエレキギターを持った曲があります。Subterranean Homesick Bluesです。
http://www.bobdylan.com/us/songs/subterranean-homesick-blues(ここで歌詞が見られます。)
この曲は、Dylanの歌唱法やギターのフレージングから、正統派なフォークの系譜に確かに連なっているといえます。しかし、エレキギターが使われていることと、当時のロックンロール特有のメロディラインが確認できるため、ロックでもあるといえます。この史上初のフォーク・ロック楽曲は、後に永遠のスタンダードとして定着することになりました。
しかし、このスタンダード曲には、よりディープな仕掛けがあると私は思うのです。それが分かるのが、この曲のPVです。Dylanが淡々と、そして次々に、断片的に書かれた歌詞のフリップを捨てて、最後には立ち去るという内容です。
https://www.youtube.com/watch?v=RS7-hbc9s7k
これを見る人の視線は、否応なくフリップに集中してしまいます。それによって、歌詞の断片、つまり一つ一つの単語が極度に前景化するのです。加えて、歌詞が非常に速く歌われることもあって、単語はもともと持っていた前後の文脈を失います。この時わたしたちは、単語の意味を一義的に特定・認識することができず、音のみを知覚できる状態になります。解釈は個々人に委ねられ、そして、それらのイメージが重なったり異なったりしながら、楽曲は奥域と広がりを獲得します。ここにも、認識による縛りを超えて得られる知覚の自由があると、わたしは思います。
この、前後の文脈を失った単語というのは、前回のボトルで言えば、ラベルが剥がれた状態です。わたしの感じる共通の面白さというのは、この、onymous(前後の有機的に連なった情報があるからこそ、ある事象を、何であるか識別できる状態)からanonymous(ある事象が、文脈とともにその意味を失って、浮遊している状態)へと移行する運動なのです。
一方でこのDylanの曲には、ボトルとは違う面白さもあります。情報の断片を、過度に集積させることが、その個々の意味性を崩壊させるという側面です。同じ光景が、大友克洋の漫画『童夢』にも見られます。次回はこの作品を取り上げたいと思います。