男性と女性がいて、一緒に過ごしていれば、やがて生まれてくるのは子どもなのだが、作家という人間は、女性の生み出す力を、時に自分の作品にしてしまう。自然な人間という存在のことを考えれば、男性と女性が生み出すものは、本当は子どもであるべきだ。でも、その最初のアダムとイブは、他にも様々なものを生み出せるし、自分たちだけの世界を作り上げることもできる。
もちろん、当然のことながら、社会というものは、そういう自由気ままなふたりをほっといてくれはしないし、自由なふたりにも、どこかで社会化の過程がある。でも、そういう社会化の過程は、どこにでもあるものだし、それほど面白くない。面白いのは、そのふたりがそのふたりだけでいる時に生み出すことができる、その創造の発露のようなものだ。そしてそれは愛が何を生み出すことができるかということでもある。
数字にまつわる話をしよう。
あらゆる創作に関わる人にとって、まず、最初のひとつ目の創作は、とても大切なものだ。2作目というのは、村上龍さんの表現を借りれば、1作目の経験でできることだ。大切なのは3作目で、その3作目に作家の本質のようなものは顕れる。
この連載も、気がるにはじめたのだけれど、3回目でつまずいてしまった。3回目というのは、どうしても大切で重要なことが出てしまうのかもしれない。
だから、3回目は僕はそのまま、3という数字が表すものについて考えようと思った。
1とは、一人称のことだと考えることができる。自分のことだ。2とはニ人称であり、あなたのことである。そう考えた時には、3とは三人称のことで、私たちであり、Weであるはずなのだが、輪に加わる3人目というのは、実は子どものことなのかもしれない。
Iが僕で、youがあなたであるとする。
もし、IとYouが、男性と女性で、恋人になれるなら、
3人称にくるべきなのは、おそらくそのふたりの子どものことであるはずだ。
しかし、人間はふたりだけではないから、3人称には、Weというすべての人が含まれる。そして、作り手が3作目を書こうとする時、この数字の魔力が力をふるう。
3番目にくるものは、ふたりの子どものことなのか、あるいはWeのことなのか。作家の力が試されるのかもしれない。
世界的な作家である村上春樹さんの場合、第3作目は「羊をめぐる冒険」という作品であり、とても素晴らしい作品なのだが、実は本当は隠された3作目というものがある。後に、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」という作品の一部となる、「世界と、その不確かな壁」という作品だ。
想像するに、春樹さんは、3作目で自身の作家としての本質を書こうとした。でも、それは春樹さんが望むようにはいかなかった。その代わりに差し替えられたのが、「羊をめぐる冒険」であり、それはただの差し替えではなく、村上春樹さんの本格的な作家としてのキャリアのスタートになった。
でも、春樹さんは、確かにこの3という数字でつまずいたのだ。作家にとって3という数字を乗り越えることができるかどうかが、とても大切なことなのかもしれない。
今、僕はこの連載において、3という魔の数字をかわしてみた。うまくかわせたかどうかわからない。
でも、本当は3という数字は愛あふれる大切な数字なのだ。