僕は子どもの頃、作家になりたいなら辞書を引きなさいと言われていた。
持ち前の親切心でアドバイスをしてくれたのだろう。でも楽しく本を読んでいて、その流れを味わっている時には、とても辞書なんて引けないし、引きたくない。それが、子どもの頃、僕が辞書を引かなかった後付けの理由だ。しかし誰かが何かをしたくないという時には、それなりの理由が隠されているのかもしれない。
辞書を引かずに文章を読み続けて育つと、確かに言葉の定義みたいなことをすらすらと答えられない人間に育つ。公共性とぱっと言われても、その言葉の定義をすらすらと今も答えられない。でも、辞書を引かずに本を読み続けた子どもは、きっと類推することは得意になるかもしれない。文脈から意味を考え、その言葉の持つ可能性のようなものについてはずっと持続的に考える子どもに育つかもしれない。
よく使い込まれた辞書は、手垢がついてぼろぼろになるものだ。けれど、僕の本棚にある辞書は、どれも真っ白な買ったばかりの状態を保っている。それでも、僕は本を書いた。辞書をボロボロにする代わりにMacintoshを使い込んだ。ある意味では、僕は辞書が引けないなりの作家になったと言える。
ところで、辞書を引くことが苦手だった子どもの頃の僕だが、検索することは、少しも苦手ではない。誰かに検索しなさいなんて言われなくても検索するし、その意味を探し求める。
Wikipediaなんて読んでいるだけで楽しいし、調べたいことがあったら、いつまでも読んでいられる。誰かに叱られることもなく、いつまでもその知識の海を彷徨うことができる。こういうことは、ここ10年ぐらいで起きた大きな変化だが、もちろん言葉の意味を調べる方法の自由は、今もある。
ひとつひとつの時代に、相応しい方法があり、また新しい方法が生まれるのだろう。
僕が言いたいことは、誰かに叱られながら強要されることは、少しも役に立たないし、少し時代が変われば、新しい方法が生まれることだってあるということです。
子どもたちは、未来へ向けて自由に泳いでいくだろう。羽ばたくだろう。大切なことは、溺れたり、飛ぶことをやめてしまうことを防ぐためのことだと僕は思っています。
あなたの近くに、空を飛びたがる子どもがいたら、そっとその方法を一緒にみつけようと、話してみませんか。