奇妙な偶然は、どこかにはあって、普段は忘れさられている。でも、時々、ああそういうことだったのかと思うことがある。
例えば、今年「アナと雪の女王」が公開されたが、2014年冬のアメリカの寒波や、日本の大雪と「アナと雪の女王」を関連づけて考えることは、いささか早計と言えるかもしれない。
でも、今年僕がいちばん聴いた音楽は、Reliqの「Metatropics 」で、この音楽のコピーは、”気候変動の激しい世界のトロピカルミュージック”であり、購入した日は、たまたま台風の日だった。そして今年ほど台風に悩まされた年はなかった。これも、ただの奇妙な一致だと言うこともできるだろう。
思い返せば、映画「ファイトクラブ」のラストと、9.11の奇妙な類似など、僕の人生では、フィクションと現実の奇妙な一致は、これまでにもあった。
こういう不思議な出来事は、一体なんだろうと考えることも多かった。僕は、昔は論理的に物事を考えようとしていたし、ちょっと不思議なことがあったぐらいでは、神様のいたずらのようなものを信じることができなかった。
でも、自分で小説を書くようになってわかってきたことが少なからずある。人が心の中で描く夢は、あるいは心の中で感じていることは、決して現実と無関係ではないということだ。
世界のあらゆる宗教の、その信仰の大切さは、僕には今となってはとても強く感じられるものだし、個人が世界を呪うような呪詛だって、ある意味では非常に大きな力を持つのかもしれないと思う。
僕が、映画「ファイトクラブ」をバイトの徹夜明けの映画館で観た時には、とてつもない興奮と感動を覚えたものだし、現代社会に対して、警鐘を鳴らすような刺激的なメッセージには随分と影響を受けた。その映画の最後、ビルが崩れさる光景も。
でも、実際に現実の光景として、9.11が起きた時、僕はいろんなことがよくわからなくなった。本当にビルが崩れてしまった。その意味がわからず、ただ彷徨い続けた。
今、思うことは、フィクションはフィクションであるはずだけど、まったく現実と無関係ではないということだ。心を震わせるものには、やはり何か力が宿っている。ある意味では、優れたフィクションは、予言のような力を持つのかもしれない。
僕はとても強いビジョンのようなものを感じる時に、創作をするのだけれど、そういうビジョンは、音楽とともにやってくることが多い。僕の作品は、ほとんど音楽からの授かりものだといってもいいぐらいだ。
こういうビジョンのやりとりは、非言語的な感覚として、訪れる。こういうことを言葉で説明することは難しい。でも、誰にだってあると思う。なんらかのインスピレーションが湧くような時が。
僕はストレートに作家になろうとしたわけではなく、高校、大学の頃は、ほとんどその全てを音楽に捧げてきた。そういう人生を捧げた時間が、僕の本来の夢である作家としての活動に、インスピレーションという形で作用するようになったことは、ただの偶然とは思えない。
ある意味では、人生はまだまだ明らかにされていないことが多く、その一方で、個人の感覚は、目に見えている論理的な視座の前で、奇妙な牢獄に閉じ込められている。
こういう直観と論理の葛藤は、どこにでもあるものかもしれないが、僕が言えることは、論理的という視座は、それほどは正しくないということです。
だから誰もが時にはそっと目を閉じて、その心の奥で感じていることを、その感じるままに受けとめることって、とても大切だと思います。