【第9話 花とヤバい女の子】
◼︎このはなのさくやひめ
「木の花、とりわけ桜の花のように美しい」という名前の女の子がいる。
日本神話に登場するこのはなのさくやひめは、夫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と契り、たった一夜で身ごもる。「たった一夜で身ごもるのはおかしい」と不貞を疑う夫に対し、彼女は身の潔白を証明するために家に火をつけた。「あなたとの子供であれば縁起が良いのだから、絶体絶命の状況でも無事に生まれるはず」と啖呵を切って出入り口のない燃えさかる部屋で出産したのだ。
彼女は炎の中で三人の子供を生んだ。
女性は花に例えられることが多い。そこにはどのような見立てがあるのか。
遅めの時事ネタで恐縮ですが、「職場の花」という価値体系を再構築しようとしたルミネのCMは2秒で炎上した。炎上したということは不快に思う人が多かったということだ。不快に思うということは、この場合の「花」はよくない意味で捉えられているということだ。
美しく、目を楽しませる以外の能力がないという意味であることは想像にたやすい。
このはなのさくやひめには姉がいた。姉は岩や石を意味するいわながひめという名前を持ち、容姿が妹より劣り(と書かれている)、身体が丈夫だった。男が姉妹を見比べ、容姿によって妹を選んだため、生まれてくる子供は花のようにはかない寿命となった。
目を楽しませるとか、寿命が短いとかいうのは、花以外の立場の感覚だ。
単純に、生物として、花はヒトの目を楽しませるために発芽しない。ヒトが亀の寿命と関係がないように、花は花以外のはかなさと関係がない。花は土の栄養を利用する。そして虫を利用する(ここでは特に悪い男性という意味で書いているわけではないです)。そして受粉を成功させ子孫を残す(ここでは特に出産という意味で書いているわけではないです)。
花はいっそ野生動物だ。花はヒトよりもシビアな環境で生きている。
花自身の成功させたいことのために虫を利用するべく用意した外見が、まったく偶然にヒトの目にポジティブに映った歴史があるだけだ。花ががんばって健気に咲いてくれているという批評は、花の生命にとってお門違いだ。(例えば犬がある日突然喋りだし、「いつも私のために黒く長い髪でいてくれてありがとう」と言ったら驚くのと同じように。)
「職場の花」はオフィスのエネルギーを吸収し、野心の花弁をつやつや寝かせている。
私は人一倍怖がりだ。たとえば、出産が怖い。死ぬのだって死ぬほどこわい。その二つのコンボである「火のついた産屋での出産」は私にとって正気の沙汰でない。(このコラムのために調べ物をしているだけで気絶しそうです。)
なぜ彼女は勇敢なのだろう。私は「ほんとうにそう」だからだと思います。
私はほんとうに清廉潔白か?-ほんとうにそう。
私はほんとうに炎に勝つか?ーほんとうにそう。
私はほんとうに目的を遂げるか?ーほんとうにそう。
私はほんとうに、今「良い」と言ったものについて「良い」と思っているか?ーほんとうにそう。
私は、ほんとうに、そうか?ーそう。ほんとうに、そう。
ほんとうに「そう」思っていることは誰にも妨げられないですね。彼女は絶対に後ろぐらくなかったし、絶対に安全だった。
折りしも桜が咲き始めている。私は桜が好きです。ぎゅっと小さい花芯が目玉に見える。花びらのひとつひとつがたましいで、すべてがいっせいにこちらを見ている。そしてじっと問いかける。文化、文脈、コンテクスト、モラル、ストーリーへの逃避、打算、セオリー、リップ・サービス、それら全てを払いのけて、
「ほんとうにそうか?」
そうです。だから大丈夫。君が「春だ!」と思うならば、今が何月だってお花見に行こう。夜中だって、遠くたって行こう。川の向こうの大学生を冷やかしたり、大声で歌を歌おう。縞模様のシートと、熱い牛乳の紅茶、フルーツ・サンドを持って行こうね。
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このコラムはひとまず今日でおしまいです。読んでくださった方、ありがとうございます。
春には悲しいことがある。だけど明るいしあたたかい。いつかどこかの河川敷で、かわいくつよい女の子、ヤバい女の子たちが花を見て、肉を食べ、酒盛りをする、そんなパライソでお会いできたらうれしいです。
そしてその時はどうか、少しの涙を拭かせてほしい。きっとよ。