わたしたちの根はどこにあるのか。わたしたちが持つ「物語」は何によって生まれ、わたしたちの「現在」は何の上に存在するのか。こんな途方もない問いかけに徹底的に向かうことが私にとっては重要なことである。
80・90年代の言論の如く、わたしたちの文化に根底などと呼べるものは存在しないと突き返してしまうのが最も容易な応答ではある。またその応答しか私たちにはできない。けれども一方で、わたしたちは現在に連続する過去のものとして戦争を知り、明治維新、そして数々の天災・災害を知っている(知っているだけであるが)。それらが我々の世界に影響を与え、何らかの形で痕跡を残し続けている筈だと確信めいて私は考える。時間は切断されてこなかったからだ。さらには、大きな事件の背後に潜む、歴史としても残らずにわたしたち個人個人が記憶する小さな場の状況、ないし情景といったうたたかで視えない形質のモノもまた忘れられずに残る。かと言って、それらの小群がそのまま自分の「根」なるものであると考えるのも疑わしい。けれども我々の、その無いかもしれない根っこの幻影にまとわりついて雑居する幾多の事物群の関係の束を粒さに考究することは無益にはなるまい。
接木と受容を重ね、文化の雑居と集積を繰り返した根底無き総体こそが日本の歴史であるが、一方で「日本」という国の名前自体、つまり文化の雑居と集積を許容する容器はあまり変化することがなかった。網野善彦によれば、「日本」という国号が定まり、「天皇」という王の照合が公的に決定されたのは七世紀末かあるいは八世紀初頭であるという(※1)。それ以前には日本も日本人も存在しなかった。「『日本人』というのは『日本国』の国制の下にある人々で、それ以上でも以下でもな」かったのであり、そうした単一民族、単一のアイデンティティを要請しかねない架空に近い国制のもとで、細部では「アジア大陸の北と南を結ぶ架け橋であるこの列島で営まれた人類社会の深く長い歴史を背景に、日本列島にはたやすく同一視することのできない個性的な社会集団、地域社会が形成されてきた」のであった。内実が絶え間なく変革し(ともすると内側の人々がその変化にも気づかずに)、変革の因子の外部流入を常に許容してきた。一方でその変容を受け止める容器自体は長年変らなかったという世界史的にもまれに見る特異な状況と地勢的特質があったのである。
現在のわたしたちの社会の根底の一端を作ったともいえる一九四五年のアメリカとの敗戦によって、象徴という形式に置き換えられる形で結局天皇制は生き伸び、日本という国名もまた生かされた。社会体制と政治体系が刷新されアメリカ型資本主義を積極的に受容する一方で、「日本」という巨大な幻の存在がなおも変らないことを認める精神の枠組は本質的には改変されることなく現在にまで生き残ってきていたようにも思う。明治維新でもそれは同様である。一国万民制に基づくひとびとの周辺世界に対する新たな空間認識は、西欧の列強諸国への対抗措置を図る新政府によって都合のいいように復古・改変され、すり替えられたものに過ぎない。それ以前の江戸室町の武士が統治した時代においても、地域ごとに諸藩大名にとって統治機構を分担し連携を保ちながら、幕府の地位は形式的には天皇から与えられた架空の地位によって保たれていた。架空、空洞なるものにすがりつき、無意識のうちに、意図せずして、その空白なるなにかに重きを置いてきたのがわたしたちである。
そもそも中世、近世、そして近代という四つの時代区分を設定していることもまた日本が世界において特異な位置にあることを示していると言われる(※2)。日本に特異な時代区分である「近世」を持たないヨーロッパの古代、中世、近代(modern)という三つの時代区分はそもそもルネサンス期に生まれたとされ、ヨーロッパ圏における近代の発生は宗教支配・呪術的支配に縛られた中世という暗黒の時代を脱し、合理主義と人間性を回復させる市民社会を形成しようとした人々の世界観の反映であった。対して、日本の時代の転換点、特に中世から近世への時代の移行は社会の文化の細部を差し置いて明確な統治機関の交代がその歴史的区分を作り出したものであった。それこそが日本独自の「近世」という時代の性格を形成し得たのか。当然、日本の島国としての特殊な地理条件考慮せければならないが、江戸幕府による「鎖国」という後進的政策による国内の閉鎖的な統序形式は人々の文化的感度の土台を作り出す大きな役割を果たしたとも言える。鎖国政策をとり、幕藩体制による各藩の領地に分節された連邦国家において、その分節領域間を交通する文化や人々の移動そのものに価値が生まれ、さらには唯一の外国との窓口であったとされる出島などの場所が「奇なるもの」の文化的発生地として広く知られるに至るのも理解できよう。
日本の近世の中にある意外な側面、つまり人々の新しい文化への旺盛な受容力を発見すればするほどに、先に触れた日本の時代区分の特殊性、特にわたしたちの認識の齟齬まで含めた「近世」に対する驚きとその現代的可能性に私自身は注目してしまう。また、その驚きの感覚によって、近世の後進の時代である日本「近現代」社会の根、つまりその文化の接木状態をまざまざと見せつける独自の異形さについて考え込んでしまう。
先に述べたように、統治体制が代わり、戦争や明治維新・倒幕など、革命的な世界状況の変化や支配体制の転換によって時代的に完全な断絶があったとは言い切る事はできない。特にこれ迄の日本近世史の研究などで明らかなように、江戸の社会とそのなかで暮す人々は、鎖国政策による外郭にわずかながら穿たれた外部文化の流入の様をするどく感知して、「奇なるもの」への好奇の趣を集積させた。かれらは、封建制度の下で彼らの文化は近代の到来を期待するように、大衆社会の消費文化を確実に備えていた。明治以降のそれと比べても彼らの好奇心と想像力の成果は見劣りするものではないだろう。それどころか、彼らの大衆的気質は、一九世紀に世界同時的に勃発した印刷技術や写真技術に端を発する複製技術革命が作り出した大量消費文化経済に容易に接続する可能性を備えていたのである。複製技術革命が世界の潮流に併せて近代日本にも到来し、それが日本の近代天皇制=一君万民制度をつくり上げる主たる要因となったとも言われるが(※3)、その根幹は江戸の大衆の気質にまで続き、またそれは外部への好奇の趣が本質的な原動力となってまでいるならば、彼らの根源はもはや固定的な位置を取れ得ずに、螺旋的に動的に旋回・浮遊せざるをえないのである。「近代的」でもなく、「江戸的」でもなく、「前近代的」でもなく・・・。時間軸を捨て去ろうとして「日本的」、あるいは「和様」などと言って終えてしまうことはもはや今の我々にはできない(※4)。西欧的でもなく、日本的でもない、それらの枠組によって還元さえ得ないような、もはや独自とまで言ってもよい概念モデルを捻出しなければならないのではないだろうか。単純な二項対立の狭間を巡るだけではなく、ましては抽象的で淡白とした構造原理を求めるのでもない。むしろそれは、中心に空洞を据えながら、いくつかの既知の構造を取り込み、接木に接木を重ね捻れ曲がった異形の概念形式として浮上してくるに違いない。
なにがしかの実践とともに、考究を続けたい。
2015年7月29日 佐藤研吾
※1 網野善彦『日本の歴史00 「日本」とはなにか』。講談社、2008年11月
※2 朝尾直弘『日本の近世 第一巻 世界史のなかの近世』、中央公論社
※3 「複製技術革命は世界共時的に進行した。まさに近代天皇制がスタートしようという時期に!」
猪瀬直樹『ミカドの肖像』、小学館、1986年12月
※4 これまでの、丸山昌男から柄谷行人、そして柄谷以降の日本近代についての分析のおおよそが、明治維新期の西欧との接触を発端として、「西欧近代」のモデルを受け入れた後、そこからの逸脱的現象に「日本的」な架空の古層の発生を指摘するという視点であったと思われる。それらの容易な二項対立あるいは折衷の形式の内で振幅する「日本」という総体を設定していたのではないか。